○伊藤長胤序[1]

 

下學算法序

天之高也。星辰之遠也。古今之悠久也。測候以致之。推歩以計之。先而弗違。後而奉之。輿地之廣也。錢穀之瑣也。有度有量有權衡。以節其遠邇。以均其出納。民時於是乎可授。經費於是乎可制。非數孰能與之。數之爲事也。吁大矣哉。古人尚實。不崇虚飾。凡關倫紀。資生養者。皆莫不講且習之。故禮樂射御書之文。併之于數。列爲六藝焉。世之弊也。去實就華。文士之常從事者。誦數焉爾耳。葩藻焉爾耳。筆札焉爾耳。乃若乗除紐拆之法。視以爲胥徒之猥務。而至有手一把算子。不知其縦横者。亦獨何哉。若夫日運牙籌。利拆秋毫者。用數之失也。非數之罪也。穂積翁與信。占籍伏見。夙精數術。勤辛多年。造其精微。著爲一書。曰下學算法。近者其子以貫。從予受學。來請之序。予也自知其失。而躳蹈其弊。亦不諳算法。鄙言何足爲輕重。懇辭其託。追而不置。今覽其書。雖未會其玄玅。而嘉其精詳明備。不唯有裨於算學。而専心致志。亦學道者之所當視傚也。爲叙其首云

正徳五年乙未十月日

京兆伊藤長胤叙

(印「長胤之印」。印「原藏氏」)

 

【訓読】

下学算法序

天の高きや、星辰の遠きや、古今の悠久なるや、測候して以てこれを致す。推歩して以てこれを計る。先(さきん)じて違い弗(あら)ず。後(おく)れてこれを奉(ほう)じぬ[2]。輿地(よち=大地)の広きや、銭穀(せんこく=金銭と穀物による租税)の瑣(さ=煩瑣)なるや、度(=ものさし)あり、量(=ます)あり、権衡(けんこう=はかりのおもりと竿)ありて、以てその遠邇(えんじ=遠近)を節(せつ=ほどよくする)し、以てその出納(すいとう=出し入れ、収入と支出)を均(ひと=等)しゅうす。民時(みんじ=民が農業をする大切な時期)ここにおいて授(さず)くべく、経費ここにおいて制(せい=節制)すべし。数に非(あら)ずんば、孰(いずれ)か能(よ)くこれに與(あず)からん。数の事を為(な)するや、吁(ああ)大なるかな。古人、実を尚(たっと)び、虚飾を崇(うや)まわず。凡(およ)そ倫紀(りんき=人のふむべき道)に関(か)かり、生養(せいよう=教育)を資(たす)くるもの、皆、講(こう)じ、且(か)つ、これを習わざるということ莫(な)し。故に礼楽射御書の文、これを数に併(あわ)せて、列して六芸(りくげい)となす。世の弊(へい=悪弊)や、実を去り、華(=華美)に就(つ)く。文士(=学問に従事する人)の常に事に従うもの、誦数(しょうすう=数をそらんじる)のみ、葩藻[3](はそう=華美)のみ、筆札(ひっさつ=筆と木の札。字を書くこと)のみ。乃(すなわち)乗除(じょうじょ)紐拆(ちゅうたく=紐で結び、紐を解く)の法の若(ごと)きは、胥徒(しょと=小役人)の猥務(わいむ=いやしい仕事)となす。而して一把(いちわ=ひとにぎり)の算子(さんし=算木)を手にして、その縦横(=たてよこの置き方)を知らざる者、有るに至る。亦(また)独(ひとり)何ぞや。若夫(もしそれ)日に牙籌(がちゅう=象牙の算木)を運(めぐ)らし、利(=利益)、秋毫(しゅうごう=非常に微細なもの)を拆(わか=析)つ[4]者は、数を用いるの失(しつ=過失)なり、数の罪に非ざるなり。穂積翁与信、籍を伏見に占(し)む。夙(つと)に数術に精(くわ)しく、勤辛(きんしん=勤苦)多年、その精微に造(いた=至)る。一書を著為(ちょい=著作)して、下学算法と曰(い)う。近者(きんしゃ、ちかごろ)その子、以貫(=穂積以貫)、予に従うて学を受け、来(き)たりてこれが序を請(こ)う。予たるや自(みずか)らその失(=過失)を知りて、躳(きゅう=身体。躬の本字)その弊(=悪弊)を蹈(ふ=踏)む。亦(また)算法を諳(そら)んぜず。鄙言(ひげん=たわごと)何ぞ軽重(けいちょう=軽いか重いか)を為(な)すに足らん。懇(ねんご)ろにその託(たく=付託)を辞す。追って置かず(=捨て置かず)。今その書を覧(み)る。未だその玄玅(げんしょう=玄妙)を会(かい=理解)せずと雖も、その精詳明備(=詳しく明快)、唯(ただ)算学に裨(ひ=補)あるのみならず、心を専(もっぱら)にし、志を致(いた)し、亦(また)道(=人倫の道)を学ぶものの当(まさ)に視傚(みなら=見習)うべきところなるものを嘉(よみ=喜)し、為(ため)にその首(こうべ=頭)に叙(じょ)す、という。

正徳五年(1715)乙未十月日

京兆(けいちょう)[5]伊藤長胤叙

(印「長胤之印」。印「原藏氏」)

 

○穂積與信跋[6]

 

下學筭法跋

數學之用。其理甚神。其術甚妙。語其大則原於圖書之數。言其細則包纖委杪忽之微。古昔聖人。建六藝之科以教人。數居其一。宜哉。然會其玄探其要。以闡天人之秘。悉六合之數者不爲多。是其所以理至玅術至神。而不易窺測也。吾師中西政好。夙耽數學。研究有年。嘗著筭法續適等集。明演段之術。人得其利居多。先是延寶年間。東武人關孝和著發微筭法。或又著演段諺解。以發發微之蘊。然未行于世。續適等集大行于世。而後人知演段之理。而二書亦得顯于世矣。吾友摂人嶋田尚政甚嗜數學。致仕講究。得大明先輩未發之理。欲考樵談筭法中所載九問答術為一書。以便學數者。而未果終。深痛焉。追取尚政之意。撰此書以壽于梓。將使尚政之意傳不朽。冀讀者不咎之不文。嘉継尚政之志。述尚政之事則可也

正徳五年乙未秋七月

穂積與信伊助父跋

(印「穂積」、印「与信之印」)

 

【訓読】

下学算法跋

数学の用(=働き)、その理、甚(はなは)だ神(=霊妙)に、その術、甚(はなは)だ妙。その大を語るときは則、図書(としょ=河図(かと)と洛書(らくしょ))の数に原(もと)づき、その細を言うときは則、繊委(せんい=ごく細い)杪忽(びょうこつ=ごく少し。秒忽)の微び=かすか)を包(つつみ)ぬ。古昔(こせき=昔)聖人、六芸(りくげい=礼楽射御書数)の科を建て、以て人に教(おし)うる。数その一に居(お)る。宜(むべ)なるかな。然(しか)れども、その玄(げん=奥深いところ)を会(かい=理解)し、その要(よう=要点)を探って、以て天人(=天と人)の秘を闡(ひら=開)き、六合(りくごう=東西南北と上下。宇宙)の数を悉(ことごとく)しつくす者、多しとなさず。これ、そのその理、至って玅(しょう=妙)に、術、至って神にして、窺(うかが)い測(はか)り易(やす)からざる所以(ゆえん)なり。吾が師、中西政好、夙(つと)に数学に耽(ふけ)り、研究、年あり。嘗(かつ)て算法続適等集を著し、演段の術を明らかにし、人、その利(=利益)を得ること居多(きょた、あまた)なり。是(これ)より先、延宝年間(1673-1681)、東武(=武蔵の国)人、関孝和、発微算法を著す。或(ある)ひと又、演段諺解を著して、以て発微の蘊(うん=奥深いところ)を発す。然れども未だ世に行われず。続適等集、大い[]世に行われて、而して後人、演段の理を知って、二書亦(また)世に顕(あら)わることを得(う)。吾が友、摂人(=摂津の人)嶋田尚政、甚(はなは)だ数学を嗜(たしな)み、致仕(ちし=職務を返し致す)講究して、大いに先輩、未発の理を明らかにすること得(う)。樵談算法中の載(の)するところ九問、答術を考え、一書を為(な)して以て数を学ぶ者に便(たより)せんと欲(ほ)っす。而(しか)[れども]未だ果たさずして終(しま)う。予、深く痛む。追って尚政の意を取り、この書を撰(せん=選)して以て梓(し)に寿(じゅ)し(=版木に刻み)、将(まさ)に尚政の意を不朽に伝んとす。冀(こいねがわ)くば読む者、予が不文(ふぶん=無学)を咎(とが)めずして、尚政の志を継ぎ、尚政が事を述ぶることを嘉(よみ=喜)せば、則ち可なり。

正徳五年1715乙未秋七月

穂積與信伊助父[7]

(印「穂積」。印「与信之印」)

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[1] 返り点、送り仮名、竪点(右側線、右傍線、左傍線)、小圏(漢字の右)つき。

[2] 広大な宇宙や時間の流れは観測と理論のどちらを先にしても間違いはない、の意。

[3] 『北史』文苑伝序に「揚葩振藻(葩をあげ、藻(そう)を振るう)」。詩文の美しさ。

[4] 「析秋毫(秋毫をわかつ)」は、非常に詳細に計算すること。

[5] 辞書には「左京職(しき)右京職(しき)の唐名」とあるが、ここでは単に「京都に住んでいる」という意味だと思う。

[6] 返り点・送り仮名・音読み訓読みを指示する左右の竪点・小圏(漢字の右側)つき。

[7] 父は「ホ」と読む、男子の称。甫に同じ。ここでは與信も子の以貫も伊助を名乗ったため、伊助父としたのかもしれない。