20111113()

同志社大学・寒梅館

数学史研究発表会

大全塵劫記の謎

島野達雄

(近畿和算ゼミナール)

 

1.はじめに

 天保三年(1832)の秋田義一の序文をもつ『大全塵劫記』には、著者を小槫謙とするものと山本賀前とするものがある。『明治前日本数学史 5巻』126頁・217頁は、小槫と山本を別人とみなし、小槫を「コヒバ」と読んでいる。

 また、後半部分の内題を「算法点竄手引草」とする『大全塵劫記』がある一方で、刊本の『算法点竄手引草 初編』は版心の題名(柱題)を「大全塵劫記」としている。

 ここでは、岡本則録が嘉永七年(1854)再刻の『大全塵劫記』に書き込んだメモにもとづき、こうした大全塵劫記の謎を解明し、大全塵劫記と算法点竄手引草の成立の経緯を推定する。

なお、岡本則録の書込みには、小槫に「コグレ」と振り仮名がある。

 

2.三つの大全塵劫記

 東北大が所蔵する岡本刊275の『大全塵劫記』(以下、大全塵劫記A)の表紙見返しには、「長谷川善左衛門寛閲」と並んで「小槫安兵衛謙編」とある。巻末には、「天保五年(1834)甲午正月」の年紀があり、「書肆」として大坂・河内屋茂兵衛、江戸・岡田屋嘉七、同・須原屋茂兵衛、同・北嶋順四郎、同・山城屋佐兵衛、同・西宮弥兵衛がある。

本文は、内題「大全塵劫記」の「基数」から「勾股弦」に至る上巻の七十七丁に加え、七十八丁表の「天元術」からは新たに内題「算法點竄手引艸 巻之上」を設け、閲者の長谷川善左衛門寛と並び、編者を「小槫安兵衛謙」としている。このAの本文は、「算法點竄手引艸 巻之下」をふくめて百四十三丁ある。前半の「大全塵劫記」上巻はもちろん、後半の「算法點竄手引艸」上下巻をふくめた百四十三丁すべての版心(柱題)は「大全塵劫記」になっている。

 一方、同じ東北大が所蔵する林文庫0589の『大全塵劫記』(以下、大全塵劫記B)には、表紙見返しと内題には、「長谷川善左衛門寛 閲」と並んで「山本安之進賀前 編」とある。巻末の「書林」には京都・天王寺屋市郎兵衛、大阪・河内屋喜兵衛、同・堺屋新兵衛、江戸・須原屋茂兵衛、同・岡田屋嘉七、同・山城屋佐兵衛、同・西宮彌兵衛が名を連ねている。この大全塵劫記Bの本文は、上記のAの前半部分、つまり「基数」から「勾股弦」までの七十七丁だけの小冊である。版心(柱題)もすべて「大全塵劫記」になっている。

さらに、東北大が所蔵する狩野7.19851の『再刻大全塵劫記』(以下、大全塵劫記C)の表紙見返しには「藤樹 山本安之進賀前 編」とある。ABとは異なり、嘉永七年(1854)の田中明の序文をもち、巻末には「書肆」として京都・出雲寺文次郎、同・勝村治右衛門、大坂・河内屋喜兵衛、同・秋田屋太右衛門、江戸・須原屋茂兵衛、同・出雲寺萬次郎、同・岡田屋嘉七。また、Aと同じように、七十八丁表に設けた新たな内題には「算法點竄手引艸 巻之上」とあるが、閲者の長谷川善左衛門寛と並ぶ編者は、表紙見返しと同様「山本安之進賀前」になっている。

このCは、Aと同じように「算法點竄手引艸 巻之下」が百四十三丁表まで続く。百四十二丁までの版心(柱題)は「大全塵劫記」。そのあと、百四十三丁表から百四十八丁裏まで問題の解法が追加されている。この追加分の版心(柱題)は「大全塵劫記 巻三」。その後は丁合い(頁番号)を付け替え、「長谷川善左衛門弘 閲・常陸笠間藩 小野友五郎廣胖 編輯」の「再刻大全塵劫記附録」が一丁表から二十四丁表まである。版心(柱題)は「大全塵劫記 附録」。本文の総計は百七十二丁にのぼる大冊である。

 

3.大全塵劫記の序文

 三つの大全塵劫記ABCには、巻頭に天保三年(1832)に秋田義一が記した「大全塵劫記序」が掲げられている。この秋田序は大全塵劫記の出版意図を明らかにしたもので、編者にはふれていない。以下に読み下しておく。

大全塵劫記序

法の古より出て今に密なるものは、算術に若(し)くは莫(な)し。既已(すでに=畳語)して密なるが故にこれを学ぶこと莫(な)ければ亦、これに於いて、自(おの)ずから易(やす)からざらんや。塵劫記あり。焉(ここ)に簡易節略(=節約)を出し、人みなこれを便(たより)とす。而して刻(=出版)数本あり。惟(ただ)大全塵劫記のみ約(=簡約)して備う。今また梓(し=出版)してこれを行なう。其(それ)後学に有益なること多し。故に序す。

天保三年(1832)壬辰八月

官銀行(ぎんこう=両替所)首、太義秋田(=秋田義一)、朱提(しゅてい=中国の銀の産地)館中に宣題す(=述べる)。〔原文は隷書の白文〕

 ABCには、秋田序と同様に、「天保三年(1832)壬辰秋八月 筑後柳川 宮本重一 撰」の半丁の序文がついている。この序文の大部分はABCで共通しているが、編者の名前が三者三様に異なっている。序題はない。

周礼(しゅらい=書名)保氏、国子(こくし=公卿、大夫の子弟)を教えるに六芸(りくげい=礼楽射御書数)をもってす。而して数は其の一に居す。蓋(けだ)し数術の上下に通じ、古今に渉(わた)りて、有益たるや多し。我が邦、吉田氏より塵劫記出でて、官府の用、童蒙の需(もとめ)、ここに資(=もと)を取らざるなし。謂いつべし、その功、大なりと。【〔A小槫益甫〔B山本益甫〔C小槫益甫】、嘗(かつ)て源変算法(=不詳)を好み、西磻(=長谷川寛)先生に受業す。覃思(たんし=熟考)研精(けんせい=研鑽)久しくして、その蘊奥(うんのう=奥深いところ)を究む。頃(このごろ)算書数編を著わし、以て源変の術を演ず。蓋(けだ)し吉田氏の功を慕うなり。題して曰く、大全塵劫記と。その術、簡約(かんやく=簡単)便易(べんい=簡便)、宏淵(こうえん=広遠)不難。算学に志ある者、これによりて往(ゆ)けば、則ち其(それ)庶幾(ちか=近)からんか。方将(ほうしょう=まさに)上梓(じょうし=出版)せんとし、序を余に需(もと)む。余と益甫、交わり厚し。是れ辞すべからざる也。りてす。【A益甫〔割注:本姓高橋氏、上毛高崎の産、小槫氏、養子と為す〕、名は謙、安兵衛と称し、号して曰く藤樹と。東武(=関東)なり。B益甫、名は賀前、安之進と称し、号して曰く藤樹と。東武人なり。〔C益甫賀前安之進と称し、号して藤樹東武人なり。曰く藤樹と。東武人なり。】

天保三年1832壬辰秋八月筑後柳川宮本重一撰(えら)ぶ。〔原漢文〕

 すなわち、同じ宮本重一序ではあるが、Aでは編者を本姓が高橋姓の「小槫益甫=謙=安兵衛=藤樹」、Bでは編者を「山本益甫=賀前=安之進=藤樹」、Cでは編者を「小槫益甫=賀前=安之進=藤樹」としている。ABCの宮本序を見比べると、小槫謙と山本賀前を別人と考えるよりも、同一人物とみなすほうが自然であろう。

 なお、ABの宮本重一序は同版のようで、BAの編者名のところを埋め木によって変更したように見える。Cはこれらとは異版である。

Cの文末で「号して藤樹東武人なり。曰く藤樹と。東武人なり。」と繰り返している理由は不明である。

大全塵劫記Cには、秋田義一序、宮本重一序に加え、嘉永七年(1854)の年紀をもつ田中明による「再刻大全塵劫記序」がある。この序文は、再刻の意図について紹介しているが、編者にはふれていない。

再刻大全塵劫記序

夫(それ)算術は、上は則、天文を測り、下は則、地理を量りて、中は則、人事(=人間社会の事柄)に用ゆ。〔闕字〕国家、一日として無くべからざるものなり。故にその術に精粗(せいそ)隠顕(いんけん=隠れることと現れること)あり、一旦(いったん=わずかな間。一朝)以てその奥の妙に至るべからず(=できない)。古人曰く、算数に有用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり、と。また宜(むべ)ならずや。故に長谷川西磻(せいはん=長谷川寛)翁の閲するところ、大全塵劫記は、謂いつべし有用の用なりと。故にこの書、一書にして算理を得る者、また多し。天保壬辰(三年(1832))刻(=印刷)成りてより、今(こん)嘉永甲寅(七年(1854))に至るまで二十余年、書肆これを嚮(きょう=饗)すること凡(およそ=総計)数万部、故に文字往々(おうおう=しばしば)磨滅す。書肆これを憂い、これを再刻せんと欲し、我が長谷川磻渓(はんけい=長谷川弘)先生に訂正を請う。先生、閲してこれを補い、また社友の解義若干条を巻末に附録して、序を余に命ず。余曰く、これ寔(まことに)〔闕字〕国家有用の書なりと。書して以て応命(おうめい=命令に応じる。応令)す。

ときに嘉永龍集(りゅうしゅう、りょうしゅう、ほしのつどい)甲寅(七年(1854))秋九月。

越後(えちご)、檉園(ていえん=田中明の号)外史(がいし=雅号に添えることば)田中明、撰ならびに書。〔原文は行書の漢文〕

 

4.算法点竄手引草初編の序文

 さて、大全塵劫記ACの後半部分「算法點竄手引艸」の版心(柱題)が「大全塵劫記」であることは先述した。この後半部分は、東北大所蔵の岡本刊279の『算法点竄手引草 初編』として一冊の本になっている(附録部分は第二十一問の解法まで)。

『算法点竄手引草 初編』の表紙見返しは、「西磻長谷川先生閲・藤樹小槫先生編輯・鳳堂秋田先生附録」「筭法 點竄手引艸」「江戸中橋廣小路町 西宮彌兵衛板」。

巻末に北林堂(=西宮弥兵衛の堂号)蔵板目次として算法新書などの広告があるが、刊記はない。

 巻頭にある天保四年(1833)善庵𣇄の序文を読み下すと次のようになる。

點竄手引艸序

筆算は蓋(けだ)し梅(=梅文鼎)氏暦算全書にム(あきらか)にて、梅氏は西洋に淵源すと云う。凡(およそ)天下の数、未だ盡劫(じんごう=無限に多い)せずと雖も、一筆して尽くすべし。其の簡捷便利、珠盤(しゅばん=そろばん)に踰(こ=超)えること萬々(ばんぼう=多方面)。点竄の術の若(ごと)きは亦、筆算なり。而して梅氏の迹(せき=あと)を践(ふ=踏)まず、別に生面(せいめん=新しい方面、新機軸)を開いて、以てその微を究(きわ)む。その妙用(=巧みな用法、すぐれた働き)活発、義を精して神に入る。梅氏と雖も、以てこれに尚(こ=越)ゆることなし。天和元禄の際、関新助、名は孝和、自由と号する者あり。数学に精(くわ)し。一心(=専心)独特の妙を究め、千古(=古来)未だ有らざるの奇(=奇才)を吐く。著述するところ、往々(=しばしば)発明多し。点竄もまたその一にして、算家の第一の要法なり。故に後の数を談ずる者、由(より)て考えざること莫(な)し。長谷川西磻(=長谷川弘)、夙(つと)に算学を以て点竄に於いて名あり。最も力を用い、その蘊奥(うんのう=奥深いところ)を究む。曩者(のうしゃ=先に)算法新書を著して、以て四方の感賞を邀(むか=迎)う。惟(ただ)点竄の術、玄奥(げんのう=奥深い)、暁(さと=悟)り難く、初学或は(=もしかすると)遺憾(いかん)なきこと能(あたわ)ず。門人小槫益甫、國字(=漢文でない日本文)、一書を著し、名づけて点竄手引草と曰(い)う。その秘訣を洩して、以て童蒙に便(たより)す。秋田中和(ちゅうか=秋田義一)又、為(ため)に附録一巻を作りて、以て未だ尽くさざるの旨を明かにす。ここにおいて、方法、詳尽(しょうじん=詳しく尽くす)し、巻を開けば瞭然たり。中和、年妙(ねんみょう=年が若い)に技(わざ、ぎ)精しく、斯道(しどう=この道)に功ありて、後学に恵む。後日の至るところ、其(それ)量るべけんや(=はかれるだろうか、はかれない)。

天保四年(1833)癸巳十二月、善庵𣇄(せき、あきら)譔(えら=撰)ぶ。〔原文は訓点つき漢文〕

 この序文からは、『算法点竄手引草 初編』の編者が小槫益甫であることはわかるが、『大全塵劫記』との関係は明らかでない。

 天保十二年(1841)刊行の大村金吾一秀編『算法点竄手引草 二編』にも、内田久命と長谷川弘の序文とあわせて、この善庵𣇄の序文が付属している。

 冒頭の「筆算は蓋し梅氏暦算全書にムにて、梅氏は西洋に淵源すと云う」という文章は、梅文鼎『暦算全書 巻三十四』の巻頭にある「筆算自序」と照らせば、大いに異論のあるところだが、ここでは詳論しない。

 

5.岡本則録の書込み

 東北大所蔵の岡本刊424の『大全塵劫記』(大全塵劫記ABCとは別の本)には、秋田義一序の余白に、岡本則録による書込みがある。これまで述べてきた大全塵劫記の謎をあますところなく明らかにしていると思われるので、以下に全文を採録しておく。まず、大全塵劫記と算法点竄手引草初編の関係について。

此書ハ天保三年本書開版登時ノ初刷本ナルガ、天保五年ノ頃下巻第七十八丁ノ首行ヲ點竄手引草上巻ト改刻シ、第百二十丁ノ首行、術曰云々ヲ前丁ノ末行ニ移シ、其跡ヲ點竄手引草下巻ト改刻シ、巻末第百四十三丁ノ尾行ニ於ケル大全塵劫記ノ五字ヲ削リ去リ、尚特ニ秋田十七郎ノ編ナル手引草附録一巻ヲ上梓シテ之ニ添ヘ、上下巻ト共ニ三冊モノトナシ、點竄手引草初篇ト表題シテ別本トナシタリ。但シ第七十八丁以下ノ鏤版ハ仍且大全塵劫記下巻ノ用ニ充テタリ。サレハ天保五年以後ニ刷出セル大全塵劫記ハ其体裁ニ於テ頗ル紊乱ノ誹リヲ招キシガ、後年嘉永甲寅ノ秋、本書全篇ヲ再刻シテ原来ノ体裁ニ復セシメ、且ツ下巻ノ末ニ問題解義数條ヲ増補セルノミナラス新ニ附録ヲモ加ヘ再刻大全塵劫記ト書名シテ発行シタルハ嘉スヘキナリ。宗老野人則録記ス。(印)

続いて、編者について、小槫謙が山本賀前と改称した旨を述べている。

編者小槫(コグレ)謙ハ天保ノ間、徳川幕府ノ御家人山本某ノ遺跡ヲ継キ乃チ山本安之進ト改称シ、名ヲ賀前ト更メタリ。因リテ大全塵劫記幷ニ點竄手引草初篇ノ署名モ然ク改刻シタリト云フ。是レ今世間ニ流傳スル所ノコノ両書ノ編者氏名ニ二様アルヲ見ル所以ナリトス。野人又記ス。(印)

 

6.まとめ

 結論として、ここで紹介した大全塵劫記ABCにおける『大全塵劫記』と『算法点竄手引草 初編』の関係および「小槫謙」と「山本賀前」の関係は、以下のように整理できる。

@天保三年(1832)以前に、長谷川寛が率いる数学道場で大全塵劫記の出版計画が生まれ、編者(著者)には、すでに上州高崎の高橋家から小槫家の養子となっていた小槫謙(安兵衛、益甫、藤樹)が選ばれた。天保三年(1832)、秋田義一と宮本重一が序文を書いた。

A天保四年(1833)ごろ、出版の準備が進められている大全塵劫記を改変し、秋田義一が書いた付録を付け加えて、算法点竄手引草初編として出版する計画が持ち上がり、天保四年(1833)善庵𣇄が序文を書いた。

B天保五年(1834)、長谷川寛閲・小槫謙編として、大全塵劫記上巻の七十七丁に加え、下巻の天元術以降を算法点竄手引草の上下巻に改変・追加して大全塵劫記Aを出版。

Cその後天保年間に、小槫謙は山本賀前(益甫、安之進、藤樹)と改名。大全塵劫記Aの宮本重一序に登場する編者名は、大全塵劫記Bでは小槫謙から山本賀前へと埋め木によって変更された。

D天保十二年(1841)、秋田義一閲・大村一秀編の算法点竄手引草二編を出版。算法点竄手引草は三編・四編・五編まで計画されていた。

E嘉永七年(1854)、長谷川寛閲・山本賀前編として秋田義一の書いた附録をふくむ大全塵劫記Cを再刻・刊行。この再刻では、宮本重一序の全文を改刻し、編者を小槫益甫(賀前、安之進、藤樹)に訂正したが、年紀は天保三年(1832)のまま残した。

Fその後、再刻大全塵劫記の余白に、岡本則録がこの間の事情を書き込み、小槫謙と山本賀前が同一人物であることを示した。

 なお、『大全塵劫記』には、大全塵劫記ABC以外にもいくつかの異本がある。このほかの異本については、今回は検討の対象としなかった。また、『明治前日本数学史 第5巻』217頁の脚注は、長谷川弘遺物書状写(日本学士院蔵)にある寛から弘への書状に「大全塵劫記は小槫(「コヒバ」と振り仮名)安兵衛作に候」とあることを指摘しているが、この書状の振り仮名は未見である。

 

 この論稿にあたり、大全塵劫記、算法点竄手引草の諸本は、すべて東北大学附属図書館の和算資料データベース http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000002wasan

の画像を参照した。記して感謝する。

 

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