◎吉田光由編『古暦便覧大全』[1]

 

◎久庵序[2]

【原文】

古暦便覧序 光由編

夫暦之爲書也。上自羲皇唐虞。下至於漢唐宋元。無世而不有作也。其預於世教。大矣。而本朝之所傳。纔長慶宣明暦而已。粤有小冊。名曰古暦。是雖暦家之所致。而又易道之一助也。其自來尚矣。雖然筭術之差。彫刻之誤。不可勝計矣。世承其弊已久矣。予雖不才。徒負學数之名。故不得已。而是正焉。聚爲両巻。更名曰古暦便覧。始于戊午終于甲子。抑々。歳星。納音。月宿。支干。至如夫氣節滅没之刻限。晦朔。弦望之星禽。考之訂之。莫不簒輯焉。是非爲高明之士探筮考經。而知悔吝憂虞者。惟欲助童蒙之輩問年尋卦。而占吉凶得失者而已矣。且若有闕誤差舛。則博雅君子重正之。幸甚。
慶安元祀戊子 仲夏穀旦
雒隠士久菴謹書

【訓読】

古暦便覧序。光由編。

それ暦の書たるや、上(かみ)羲皇(=伏羲)唐(=堯)虞(=舜)より、下(しも)漢唐宋元にいたるまで、世として作あらざるなし。その世教(せいきょう=世の教え、儒教)にあずかること大なり。しかれども本朝のつたえるところ、わずかに長慶宣明暦[3]のみ。ここに小冊あり、名づけて古暦という。これ暦家のいたすところといえども、また易道の一助たり。そのよりて来ることひさし。しかりといえども、算術のたがい、彫刻の誤り、あげてかぞうべからず。世にその弊(つい)えをうけることすでにひさし。予、不才なりといえども、いたずらに数を学ぶの名をおえり。ゆえに、やむことをえずして、これを是正す。あつめて両巻となし、さらに名づけて古暦便覧という。戊午にはじめて甲子におう。そもそも歳星(=木星)、納音(なっちん)[4]、月宿(=各月に二十八宿を配したもの)、支干(=干支)、かの気節(=中気と節気。二十四節気)、滅没(めつもつ)[5]の刻限(=時刻)、晦朔(=月末と月初の日)、弦望(げんぼう)[6]の星禽(せいきん)[7]のごときにいたらんと、これを考え、これをただし、簒輯せざるということなし。これ高明の士の筮(ぜい=筮竹)をさぐり経をかんがえて、悔吝憂虞(かいりんゆうぐ)[8]を知るもののためにあらず。ただ童蒙のやからの年をとい、卦(か)をたずねて、吉凶得失(きっきょうとくしつ)[9]をうらなうものに助けあらんと欲するのみ。もし闕誤(けつご=欠陥と誤り)差舛(させん=誤りそむくこと)あらば、すなわち博雅(はくが=博識と雅量)の君子かさねてこれをただせば、幸いはなはだしからん。
慶安元祀(=元年)(1648)戊子、仲夏(=5月)穀旦(こくたん=吉日)、雒(らく=洛陽、京都)隠士、久菴[10]謹書。

【通釈】

暦の書は、伏義や堯、舜のころから、漢唐宋元の時代もずっと作りつづけられており、社会におおいに貢献してきた。しかし、わが国に現在伝えられているのは、長慶宣明暦だけである。いま、私の手元に『古暦』と名づけられた、小さな本がある。これは暦家が制作したもので、ながらく易の道の一助となってきた。けれども計算の誤りやミスプリントが多く、弊害もあった。私は、たいした才能はないが、数学者として有名になった。そこでやむをえず、この『古暦』を訂正し、2巻として、『古暦便覧』とあらたに命名した。これは戊午に始まり、甲子に終わっている。歳星の動き、納音、月宿、干支、中気と節気、滅没の日付時刻、晦日と朔日、月の満ち欠けの星禽まで、すべて正確を期して盛り込んでいる。この本は専門家が筮竹を使い、経典を開いて、易の真髄を知るためのものではない。大衆が年月による占いをするための助けになれば、と願うばかりである。そこでもし世の有識者がこの本の欠陥や誤りを発見されたなら、もう一度、訂正していただければ、まことに幸いである。
慶安元年(1648)5月吉日、京都の隠者、久庵、謹書。

 

◎森氏胤序[11]

【原文】

精選古暦便覧大全叙。

運而無息天之六氣聖哲仰法在玉衡生而不絶地之正行明覈俯察制圭策河馬之背圖洛亀之甲書壹是易卦之著見筭数之應給而已矣然則易道之相行者無過於占卜矣氣数之寄寓者靡如暦筭矣惟夫久菴老人者苟星辰啓心之人而蓋壤假手之士乎所著古暦便覧実國家鴻寶天下之珍奇也惜哉絶筆於万治己亥亦数百秊而后後學終懐於不能知来之患矣爰在無求子者平生嗜筭術尤精暦象其於天文之数律暦之事也唐都張蒼日域之清明之属可同日而語也投其筭楪其策則方圓勾股之法三帰筑臺之制當對立而談矣一日執彼書續也點墨於寛文庚戌於寛文庚戌而戌而六十歳於是童蒙既聞於頓得察逆之悦矣三八節氣之刻限二六晦朔之晀至如歳星納音月納音月宿支干考訂之且以阦烏水兎之蝕分旁釋集成可謂年暦大全矣予嘗欲壽櫻以廣傳于世矣幸間書林某請彫刻之而不已率然顧如卞石之始得光也校閲之日爲是書與焉

延寶元年大簇望日 洛下逸士森氏胤題。

【訓読】

運(めぐ)りて息(や)むことなきは天の六気[12]、聖哲、あおぎみて玉衡(ぎょっこう)[13]をあきらかにし、生じて絶えざるは地の正行、明覈(めいかく=明賢)、俯(ふ)し察(み)て[14]圭策を制す[15]。河馬(かば=黄河にあらわれた竜馬)の図(=河図)を背にし、洛亀(らっき=洛水にあらわれた霊亀)の書(=洛書)を甲にするは、いつにこれ易卦(えきか)の著見(ちょけん=はっきりとわかること)、算数の応給[16]のみ。しかるときはすなわち易道のあいおこなわるるものは占卜(せんぼく)にすぎたるはなし。気数(=運命)の寄寓するものは暦算にしくはなし。惟(おも)うにそれ久庵老人[17]は、まことに星辰、心をひらくの人にして、蓋壌(がいじょう=天地)、手を假る(=手を借りる)の士か。あらわすところの古暦便覧、じつに国家の鴻宝(こうほう=大いなる宝)、天下の珍奇なり。おしいかな筆を万治己亥(1659)に絶(た)つ。また数百秊(=年)してのちに、後学(=将来の学者)ついに来(らい)[18]を知ることあたわざるの患いをいだく。ここに無求子[19]というものあり、平生(へいぜい=普段)算術をたしなみ、もっとも暦象にくわし。その天文の数、律暦のことにおけるや、唐都張蒼(ちょうそう)[20]、日域(じついき=太陽の照らすところ、天下)の清明が属(たぐ)い、日を同じうして(=同時に、同じレベルで)語るべし。その算(=算木)を投じ、その策(=筮竹)を楪(ちょう)する(=数える)ときはすなわち、方円、勾股の法、三帰筑臺の制[21]、まさにあい立ちて談ずべし。一日、かの書をとりて続くや、墨を寛文庚戌(1670)より点して六十歳、ここにおいて童蒙、すでにとみに逆(ぎゃく=未来を知ること)を察することを得るの悦びを聞く。三八節気(=二十四節気)の刻限(=時刻)、二六(=十二ヶ月)晦朔の(ちょうじく)[22]、歳星(=木星)、納音(なっちん)[23]、月宿(=各月に二十八宿を配したもの)、支干(=干支)のごときにいたるまで、これを考えただし、かつ阦烏(ようう=太陽に三本足のカラスが住むとの伝説から転じて、太陽)水兎(すいと=月)の蝕分をもって旁釋集成す。いいつべし、年暦の大全なりと。予、かつて桜に寿(ひさし)うして(=桜の版木に刻んで)、もって広く世につたえんことを欲す。さいわいにこのごろ書林某、これを彫刻せんことを請うて、やむにしからず(=やむをえずおこなった)。率然(そつぜん=自己の行いを謙遜したことば。軽々しいさま。率爾)として顧みるに、卞石(べんせき)[24]のはじめて光をえるがごとし。校閲の日、これがために書してあたう。
ときに、延宝元年(1673)大簇(たいそう=1月)望日(=15日)、洛下(=京都)逸士(=隠士)、森氏胤[25]、題す。

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[1] 日本学士院蔵。『古暦便覧』と称するものは数多い。本書はその一つ。

[2] 訓点・句点(小圏)・竪点・送り仮名つき。

[3] 唐の徐昂の撰。わが国では、宋の元嘉暦、唐の儀鳳暦、大衍暦、五紀暦についで、貞観4年(862)から頒行され(宣明暦までの伝来を「漢暦五伝」という)、貞享2年(1685)の貞享暦の頒布まで、800年余り使用された。

[4] 六十干支に五行を配した暦注のひとつ。甲子と乙丑は海中金、丙寅と丁卯は爐中火というように、連続する二つの干支に一つずつ割り当てられ、合計三十の納音がある。

[5] 1ヶ月を30日と仮定したとき、暦法上の平均朔望月(宣明暦では29日4457/8400)との差を累積し、1日分に達した時刻を含む日を滅日と呼ぶ。約62.9日周期。同様に、1年を360日と仮定したとき、暦法上の平均太陽年(宣明暦では3652055/8400)との差を日割りで累積し、1日分に達した時刻を含む日を没日とよぶ。約69.6日周期。滅日も没日も百事に大凶。わが国独自の暦注のひとつ。

[6] 陰暦7・8・9日頃の月を上弦、22・23・24日頃の月を下弦といい、あわせて弦月とよぶ。望月は陰暦十五日の月。『漢書』律暦志に「朔晦分至躔離弦望を定む」とある。

[7] 角金蛟、亢火龍のように、二十八宿、五行、鳥獣の三つを組み合わせたもの。禽星。本書、『古暦便覧大全』(学士院本)には記されていない。

[8] 悔恨と憂慮。『易経』繋辞上伝「悔吝とは憂虞の象なり」。

[9] 易の用語。得失は失得とも。『易経』繋辞上伝「吉凶とは失得の象なり」。

[10] 角倉家所蔵の『角倉源流系図稿』に久庵は吉田光由の晩年の号とある。

[11] 訓点・竪点・送り仮名をもつ。句点はない。

[12] 天地間の六気には、(1)朝・日中・日没・夜半・天・地(2)陰・陽・風・雨・晦・明(3)寒・暑・燥・湿・風・火の三説ある。

[13] 玉を飾った天体観測器。『書経』堯典「在瓊璣玉衡、以齊七政」。

[14] 『易経』繋辞下伝「仰観俯察」。

[15] 圭は二等辺三角形。圭策は木簡や竹簡を意味するのであろう。制策は天子の質問に策を奉じて答えること。易では策は筮竹をさす。

[16] くずし方からは應給とよめるが、意味不明。應該(=まさに云々すべき、当然のこと)かもしれない。

[17] 吉田光由のこと。『角倉源流系図稿』に光由の号として示す。

[18] 未来。『易経』説卦伝「来を知るは逆なり」。

[19] 無求子の名は、本書『古暦便覧大全』にしか登場しない模様。安藤有益『竪亥録仮名抄』の著者不明「竪亥録序」に「筆を無窮斎に滌ぐ」とある。

[20] 秦の御史、漢の丞相。秦の十月を歳首とする顓頊(せんぎょく)暦を献策して容れられ、司馬遷が批判している。『史記』巻九十六と『漢書』巻四十二に伝がある。

[21] 方台(四角錐台)の体積の計算法。『論語』八佾の「管子に三帰あり」に対する、『論語大全』の注釈に「仁山金氏いわく、三帰の台、算家に拠れば、台を築くに三帰の法あり、蓋し方台なり」とあり、直方体の体積から2/3を除いたものを四角錐の体積としている。三帰は「3で割る」の意味であろう。

[22] 晀は晦日に西に出る月。みそかづき。は朔日に東に出る月。ついたちづき。晀(じくちょう)とも。

[23] 六十干支に五行を配した暦注のひとつ。甲子と乙丑は海中金、丙寅と丁卯は爐中火というように、連続する二つの干支に一つずつ割り当てられ、合計三十の納音がある。

[24] 『韓非子』和氏。楚人の卞和(べんか)が二度、玉を献じるも石とされて罰を受け、三度目に磨くと光が出て玉と判明した故事。『実語教』の「玉磨かざれば光なし」はこの故事にもとづく。

[25] 字の大きさと間隔から見ると、森が姓で氏胤が名。姓が森氏、名が胤ではないとおもう。森氏胤も森胤も国書人名辞典等に見えない。