◎算法明解[1]

 

◎橋本佳隆序[2]

【原文】

笇法明解叙

先儒稱天地間有理必有數河圖雒書與危微精式之語竝傳焉盖笇家之立太極演两儀深暁變通之義厥則可併觀焉余同志田中氏某甞游蓺暇術笇法記一十餘之問案以似余焉以謂是固起予之人開物之務因取元儒之言簽用明解且命剞劂氏謀以垂世庶幾畞角量衡之會計律歴星躔之驗測軍旅海島之立法由此培其根則豈無補于 國家者云乎也
維旹
延寶己未春二月候晉之月洛城後學橋本氏佳隆叙

【訓読】

算法明解に叙(の)ぶ。

先儒の称(とな)う、天地の間、理あれば、必ず数あり。河図(かと)洛書(らくしょ)と危微(きび=微妙)精式の語、並伝す。盖(けだし)算家(さんか)[3]の太極を立て、両儀(=陰陽)を演(の)べて、深く変通(へんつう=変じ通じる)の義を暁(さと)す。厥(そ)の則(のり)、併(あわ)せ観(み)つべし。余が同志、田中氏某(なにがし)、嘗(かつ)て遊芸(ゆうげい=技芸に心を寄せ、味わい楽しむ)の暇(いとま)、算法記一十余問案に術す。以って余に似(しめ)す。以謂(おもえら)く是()れ固(まこと)に予を起す[4]の人にして、物を開(ひら)くの務(つとめ、いとなみ)なり。よりて元儒の言を取りて、簽(せん)する(=名づける)に明解を用(もって)す。且つ剞劂(きけつ=彫刻)氏に命じて、世に垂(たれ)んことを謀(はか)る。庶幾(こいねがわく)ば畝角・量衡の会計、律歴(=律暦)・星躔(せいてん=星の宿り、星度)の験測(けんそく)、軍旅(=軍隊、戦争)・海島の立法、此(これ)によりてその根に培う(=根に土をかけて育てる)ときは則、豈(あに)[闕字]国家に補(おぎな)い無きものと云わんや。
(これ)時に
延宝己未(7年(1679))春二月、候晋の月、洛城(=京都)後学、橋本氏佳隆叙(の)ぶ。

 

◎田中正利跋[5]

【原文】

書算法明解後

凡識二首六身之未必慧聦雖暮四朝三亦何其痴黠是可與忘筌拌糟之人共權而不容爲刻舷捧心説之太極正負之於叀綴亦然也不可以不辯焉是業行世已徃術之玄玄士之濟濟未有昌似是時不佞蚤遊于先生橋本氏門且獲管闚一斑朅來著算法記一十五欵之術式以請推敲於先生先生以於其云見商間直立原數者為太無益於初學不佞唯退以從其言復脩附録一篇使作之階梯凡二巻先生命流世第懼自菲薄不耐先生之箕裘不免議者之玄白幸君子商確諸
延寶六年著雍敦牂之歳秋九月菊有黄華之日河洛末流田中氏正利書于都門僑居

【訓読】

算法明解の後(しりべ)に書す。

凡(およ)そ二首六身(にしゅりくしん)[6]の未だ必ずしも慧聦(=聡明)ならざることを識(し)るときは、暮四朝三といえども、また何ぞそれ痴黠(ちかつ=愚かで悪賢いこと)ならん。これ忘筌(ぼうせん=魚を獲って筌(漁具)を忘れる喩え)・拌[7]糟(はんそう=酒を作り酒粕を捨てる喩えか?)の人と共に権(はか)るべくして、容(まさ)に刻舷(こくげん=頑固で時勢に通じない喩え。刻舟)捧心(ほうしん=悲しみ胸をかかえる)[8]のためにこれを説くべからず。太極・正負の叀綴(せんてつ=縣(かけ)てつづる。易の用語か?)におけるも、また然(しか)り。以って弁ぜざるべからず。是の業、世に行(おこな)われてより已徃(このかた=以往)、術の玄玄(げんげん=深遠)士の濟濟(さいさい=多いこと)、未(いま)だ是時(このとき)よりも昌(さか)んなるはあらず。不佞(ふねい=自己の謙称)、蚤(はや)く先生、橋本氏の門に遊びて、且つ一斑を管闚(かんき=菅見)することを獲(え)たり。朅來(このかた=このたび)算法記一十五欵(かん=款、ひとまとまり)の術式を著して、以って先生に推敲を請(こ)う。先生、それ、見商を云う間(あいだ)に、直(ただち)に原数を立てるものを以って、太(はなはだ)初学に益なしとなす。不佞(ふねい=私、自己の謙称)、唯退(いたい=ただ退く)以ってその言に従う。また附録一篇を脩(おさ=修)め、これが階梯と作(な)さしむ。凡(すべ)て二巻、先生、命じて世に流(つたえ)しむ。第(ただ)懼(おそ)るらくは、自(みずか)ら菲薄(ひはく=うすく劣っていること)にして、先生の箕裘(ききゅう=業の受け継ぎ)に耐えず、議者(=議論する者)の玄白(げんはく=黒白、明白な区別)を免れざらんことを。幸(こ=乞)う、君子、商確(しょうかく=はかりさだめること)せよ。
延宝六年(1678)著雍(ちょよう=戊)敦牂(とんしょう=午)の歳、秋九月、菊に黄華(=黄色い花)あるの日、河洛末流、田中氏正利、都門の僑居(きょうきょ=寓居)に書す。

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[1] 日本学士院所蔵の写本。巻末に「大正三年一月岡本則録氏藏書ヨリ冩記」とある。

[2] 訓点・竪点・送り仮名つき。

[3] ここでは易をおこなう人の意味。

[4] 『論語』八佾。自分の気づかないことを悟らせる。自分の心を啓発する。

[5] 訓点・竪点・送り仮名つき。

[6] 『春秋左氏伝』襄公三十年。絳縣(こうけん)老人(名は亥)が年齢をたずねられ、「私は正月甲子の朔の生まれで、それから四百四十五回の甲子がめぐり、その最後の甲子の日から二十日たった」と答えた逸話。そのとき、師曠が「七十三歳」と計算し、大史の趙が「名の亥の古字は二首六身になり、それは生まれてから今日までの日数を示す」と述べ、士文伯が「それは二万六千六百六十日になる」と言った。ここでの「二首六身」は絳縣老人を指すのであろう。

[7] 拌の原文は手偏に弃。拌の俗字。

[8] 刻舷は、剣を江中に失い、船ばたに印を刻んだ故事。捧心はそのため悲嘆すること。