◎古今算鑑

 

◎無外子釈圓通序[1]

【原文】

題言

嘗聞大千世界有古今筭鑑今也刻成一覽便識大千世界不宜無斯書也葢須彌絶頂測量日月星辰之行度不周山上補立天柱地維之折缺最上巧夫貫通斯書則瞿曇氏之明女媧氏之智亦可以企及也矧於尋常之數盡術窮理乎斯書一出則打破大千世界數學家之邪見金剛鎚哉思敬之功無量老衲復不能德焉敢書詹言遺之
天保三壬辰春
無外子釈圓通識并書
時歳七十有八

【訓読】

題言

(かつ)て大千世界に古今算鑑のあるを聞く。今や刻、成り、一覧して便(すなわち)大千世界に、よろしくこの書無くべからざるを識るなり。葢(なんぞ)須弥(=須弥山)絶頂、日月星辰の行度を測量し、不周(=崑崙山の西北にあるという山)山上、天柱(=天を支えているという柱)地維(ちい=大地を維持すると考えられた維(つな))の折缺(せっけつ=曲がると欠ける)を補立せんや。最上の功(たくみ)、夫()れ、この書を貫通せば、すなわち瞿曇(くどん=釈迦)氏の明、女媧(じょか=伏羲の妹、妻とも。媧皇、女希)氏の智、また以って企て及ぶべし。いわんや尋常の数において、術を尽くし、理を窮めんや。この書、ひとたび出(いづれ)ば、すなわち大千世界、数学家の邪見を打破する金剛鎚(つい=槌)ならんや。思敬(=内田五観のあざな)の功、無量、老衲(ろうのう=老僧。衲は「ころも」)また徳(めぐ)むことあたわず。いずくんぞあえて詹言(せんげん=くどい言葉)を書し、これを遺(のこ)さんや。
天保三壬辰(1832)春、
無外子釈圓通、識(しる)し、并(あわせ)て書す。
時歳七十有八

 

◎川井久徳序[2]

【原文】

古今算鑑序

數學之於典故也其来邈矣而其存於傳者惟九章而已要之常不出乎温故知新之理也予始學數時亦知有九章覃思潜心一従事於斯既稍覺新以為數學之用盖在於此矣而後又學天元演段之術甚驚探微洞玄之靈欣然刻苦激厲遂臻其奥而復又覺新乃以為數學之體又在於此矣爾後昂然説數談理於天下之數理又無以加焉近者内田思敬齎其所著古今算鑑来示予望其帙則一視其策則僅二也心竊謂尋常之小冊子徒老蠧於書估之篋笥耳及展其巻則其設問之巧其所答之詳章々句々金玉磊砢如在崑山麗水之中也閲畢大驚其術之又新而知前日予所新者盡皆不新也豈圖思敬之術既已出於斯方今天下誕膺奎星之度午運之會文人君子彬々鬱々各以其枝建赤幟於四方者世世不為不多則思敬之得新亦有由化而然者乎思敬夙嗜斯業篤志切問既因其新又窮其新遂新々盡其薀奥矣而旁及天象暦術無不該通也其従學者常輻輳於戸庭洋溢於四海矣今此書之編也就方圓窮理之中而別出新意作豁理圓之法微々纎々不謬毫髪實千歳不易之龜鑑也盖前人之所未發而思敬能窮其理即篤學之所致可謂至矣信矣哉孟子有云天之高也星辰之遠也苟求其故千歳之日至可坐而致也嗚呼思敬之術亦循其故竟至乎得其新然而人或謂無有得新則後世復無有得新矣
天保三歳次壬辰立春之日
朝散大夫 川井久徳撰

【訓読】

古今算鑑序

数学の典故(てんこ=先例、故事)におけるや、その来ること邈(はるか)なり。而して伝に存(あ)るは、ただ九章のみ。これを要(=要約)せば、常に温故知新の理より出(い)でざるなり。予、はじめて数を学ぶとき、また九章あることを知り、覃思(たんし)潜心、一にこれに従事し、既(すで)にして(=やがて)稍(ようや)く、新しきを覚え、以って数学の用、なんぞここに在(あ)らんやとなす[3]。而して後、また天元演段の術を学び、甚だ探微洞玄の霊(たま、たましい)に驚く。欣然、刻苦激厲(げきれい)ついにその奥に臻(いた=至)りて、ふたたび又、新しきを覚え、すなわち、以って数学の体またここにあるとなす[4]。爾後(これよりのち)昂然、数を説き、理を談じ、天下の数理にまた、以って加えることなし。近者(ちかごろ)、内田思敬、そのあらわすところの古今算鑑を齎(もたら)し、来りて、予に示す。その帙(ちつ)を望(のぞ)めば、すなわち一つ。その策(さく=冊)を視(み)れば、すなわち僅かに二つなり。心、竊(ひそか)に謂(おも)う、尋常の小冊子にして、徒(いたずら)に書估(しょこ=書店。估は「あきなう」)の篋笥(きょうし=竹の箱)に老蠧(ろうと=紙魚、虫食い。蠧は「きくいむし」)となるのみと。その巻を展(ひら)き及べば、すなわちその問を設けることの巧み、その答えることの詳(つまびら)か、章々句々、金玉磊砢(らいら=物が多く重なったさま)崑山麗水の中にあるなり。閲し畢(おわ)り、大いにその術のまた新しきを驚きて、前日、予が新しきとするところのものは尽(ことごと)く皆、新しからざることを知るなり。豈(あに)図らんや、思敬の術、既已(すでに)ここを出ず。方今(=当今)、天下、誕(ここに、まことに)、奎星の度、午運の会[5]に膺(あた=当)り、文人、君子、彬々鬱々、おのおのその技を以って赤幟(せきし=赤いのぼり)を四方に建てるもの、世世多からずとなさず(=多くないとは言えない。多い)。則(もし)思敬の新しきを得れば、また、化によりてしかる(=そのようにする)者あらんか。思敬つとにこの業を嗜み、篤志切問、すでにしてその新により、またその新を窮め、ついに新々、その蘊奥を尽くす。而して、旁(かたわら、かたがた)天象暦術に及び、該通せざるなし。その従う学者、常に戸庭に輻輳(ふくそう)、四海に洋溢す。いま、この書の編たるや方円窮理のなかにもとづきて、べつに新意を出し、豁理および楕円の法をつくり、微々繊々、毫髪も謬(あやま=誤)らず、実に千歳不易の亀鑑なり。なんぞ前人のいまだ発せざるところにして、思敬よくその理を窮めざらんや。すなわち篤学のいたすところ、至れりと謂いつべし。信なるかな。孟子[6]の云うあり。天の高き、星辰の遠き、いやしくもその故を求め、千歳の日に至り、座していたすべきや。嗚呼(ああ)、思敬の術、またその故に循(したが)い、ついにその新を得るに至る。しかり而して、人、あるいは新を得るあることなしと謂うならば、すなわち後世、ふたたび新を得るあることなし。
天保三歳次壬辰(1832)立春の日
朝散大夫[7]、川井久徳、撰ぶ。

 

◎内田恭序[8]

【原文】

昔者伏羲氏之王於天下也始畫八卦爲之經爲之緯而邦國以寧矣周公立保氏之職養國子以道教之六藝而數居於其一以賛成化育矣數學之有關乎世教亦既大意蓋自河出圖數既具焉軒轅氏之時隷首又作算數而治道從張焉堯命羲和暦象日月星辰舜在璿璣玉衡以齊七政皆莫不因於數也及禹獲洪範九疇包含乎天下之理變通乎萬物之情上自王公下至庶人彛倫所叙莫不倚賴焉三代之隆既已如此周之衰上失其政下廃其職不復知爲經緯天下之具終至於絳縣老人以甲子言其歳數則當時人能知者鮮矣其廃弛亦可以知也自漢以來數學復興歴代設科以取士焉唐六典算學十經博士弟子五年而學成矣於是乎崛起於其閒者魏有劉徽而究圓理幽微之率呉有趙達而著頭乗尾除之法宋有祖冲之而立密率唐有李淳風而解十經皆博綜精微一時獨歩自時厥後科目既廃數學罕伝五代之時至王章云斥文士與一把算子未知顚倒其廃弛復又如此也趙宋大觀中選古來善算學者六十六人而封之公伯子男之四等於是復一振焉喪亂相承未能専精也至元郭守敬以天文暦術鳴於世朱世傑又演天元術撰算書三巻窮未明不解之解包羅策數靡有孑遺而後數學之道復大明矣世世相襲不乏其人明末西洋利瑪竇等十餘人各以豪邁之才凌十万里之艱遠來于中華首唱天球地球之説奮然導之則天下靡靡従之莫敢與之抗而其數學宏淵人莫能測知其津涯也數學之行未有盛於是時也明亡清世祖命其徒湯若望造修時時憲暦特賜通懸教師之號以褒賞之蓋西洋人總精數理是以象緯之學特盡精微矣後世言暦數者莫不皆祖之也我

←孝徳天皇大化二年正月甲子朔
詔曰擧聰敏而巧書算者爲主政主
←文武天皇大寶元年選定令中有算博士
之職而精斯道者世世不少而其尤顯者小槻三善之二氏也迨中古政荒令廢戰國搶攘之日九章之學墜地無復知有關乎世教者士勞軍務民苦流離煩除法而不用惟乗法之用此曰正慶算數學之厄極于此矣至
慶元之際出羽守毛利重能始著歸除之法二巻而教弟子其術不及開平方然爲後世數學家之津梁矣當是時四海昇平游文藝者不少吉田著塵劫記大行于世然亦不過乎開平開立方程盈之數法矣最後有澤口一之者獲元朱世傑算學啓蒙而始發揮天元術著古今算法保井春海因郭守敬授時暦經而研究推歩之法新修
貞享暦又我
關夫子以卓然傑出之才渉獵百家之秘書發明其機軸遂大超越乎前代於是乎數學之道復明于世弟子遊于其門者雖多不能窮其壼奥而荒木氏之傳獨得其宗而傳之於其門人松永良弼良弼傳之山路主住主住傳之安嶋直圓直圓傳之我
日下先生余幼受業于先生之門朝夕従事於斯切磋琢磨微有所發明
文政庚辰之春遂不辭固陋新書所心得之術一則掲之於
武之一宮之靈祠以祈神明之寵矣
先生曰孺子可教也時余未弱冠固辭焉壬午正月遂以帳中之秘訣及所親炙之弟子悉附屬于我也有弟子或難我者世之所掲神祠算題未能多免精于此而粗于彼之譏今所掲之一則有亦説乎曰有之大凡人之所爲但擧一隅而已未能以三隅反也我所爲者則不然自一隅至千萬隅莫有不通也其術先須認得理如何而後立算傍書以求開差差中又自有差差差相遂又以理綴之余名爲豁理之術果能通曉此理則雖謂有天度之差推歩之密不費心思而可識得也別詳于所著之方圓一致矣庶幾可以免大方之謗議乎頃日弟子又輯吾及弟子之嘗所掲於神祠佛寺之算題若干則以爲小冊子名之曰古今算鑑藏之家塾以爲有所裨益于生徒矣弟子憚其謄録之勞請刻之梨棗以公于世余曰不可也夫數學之道高也大也精也微也古來
聖賢相承經緯乎天下之法既詳于經于傳矣豈淺淺小術所可跂及也哉若夫關氏宗統之傳或關乎世教者則可也余也不敏未能致犬馬之勞於天下而欲以虚名累我耶弟子彊而不已然於數學之興廢繼絶之功則未必無小補也因而授之
天保壬辰之春正月内田恭思敬氏書於東曈軒

【訓読】

昔、伏羲氏の天下に王たるや、始めて八卦を画(かく)し、これ経(たていと)となし、これ緯(よこいと)となして、邦国(=国家)もって寧(やす)んず。周公、保氏の職を立て、国子を養うに道を以ってし、これに六芸を教ゆ[9]。而して数、その一に居し、以って化育(かいく=天地自然が万物を生じ育てること)を賛成(=同意して成り立たせる)す。数学の世教に関するあるは、また既に大なり。なんぞ河、図を出してより、数、すでにつぶさならんや。軒轅氏(けんえんし=黄帝)の時、隷首また算数を作り、而して治道し従張す[10]。堯、羲和(ぎか)に命じて、日月星辰を暦象し、舜、璿璣(せんき)玉衡(ぎょっこう)を在(み=観)て以って七政を斉(ととの)う[11]、皆、数に因らざるはなし。禹、洪範九疇を獲る[12]に及び、天下の理、包含し、万物の情、変通(=自由自在に変化適応すること。臨機応変)す。上、王公より、下、庶人に至るまで、彛倫(いりん=人の常に守るべき道)の叙(の)べるところ、倚賴(きらい=たよる)せざるはなし。三代(=夏殷周)の隆、既已(すでに。二字で「すでに」と読む熟字訓。既以)かくのごとし。周の衰えるに及び、上、その政を失い、下、その職を廃し、また天下を経緯するのつぶさにするを知らず。終(つい)に、絳縣(こうけん)老人[13]、甲子を以ってその歳数を言えば、則、当時の人、よく知る者、鮮(すくな)しに至る。その廃弛、また以って知るべきなり。漢より以来、数学、また興り、歴代、科を設け、以って士を取る。唐六典(=唐の法制のこと)、算学十経博士、弟子五年にして学成る。これにおいてや、その間を崛起(くっき=そばだつ)する者、魏に劉徽ありて、円理幽微の率を究め、呉に趙達[14]ありて頭乗尾除の法を著し、宋に祖冲之ありて密率を立て、唐に李淳風ありて十経(=算経十書)を解く。皆、博(ひろ)く精微を綜(あつ)め、一時に独歩す。時より厥(その)後、科目すでに廃れ、数学、伝を罕(かん、まれ)にす。五代のとき、王章、文士を斥(しりぞ)け、一把(いちわ)の算子を与えて、いまだ顛倒(てんとう=たおれる)を知らずというに至る[15]。その廃弛また又、かくのごときなり。趙宋(=唐のつぎの宋朝。南北朝の宋は劉宋)大観の中、古来、算学を善くする者、六十六人を選びて、これを公伯子男の四等に封ず[16]。ここにおいて、また一振す。然れども、喪乱(そうらん=争乱)、相承(そうしょう=順次つづく)し、いまだ専らに精をよくせざるなり。元に至り、郭守敬(=授時暦の撰者)、天文暦術をもって世に鳴る。朱世傑また天元術を演(の)べ、、算書三巻を撰び、未明の明を窮め、不解の解を尽(ことごとく、つく)し、策数を包羅し、孑(ひとつとして)遺(のこ)すものあることなし。而して後、数学の道、また大いに明らかなり。世世あい襲(おそ)いて、その人にとぼしからず。明末、、西洋の利瑪竇(=マテオ・リッチ)ら十余人、おのおの豪邁の才をもって十万里の艱(かん=困難)を凌ぎ、中華に遠来し、首(はじめ)て天球地球の説を唱え、奮然、これを導けば、すなわち天下、靡靡(びび)としてこれに従い、あえてこれと抗するなし。而して、その数学、宏淵、人、よくその津涯(しんがい=水ぎわ、はて)を測知することなし。数学の行、いまだこのときより盛んなることあらず。明、亡び、清の世祖、その徒、湯若望(=アダム・シャール)に命じて、時憲暦を造修し、特に通懸教師の号をたまい、もってこれを褒賞す。なんぞ西洋人、すべて数理にくわしく、これをもって象緯の学、ただに精微を尽くさんや。後世、暦数を言う者、皆これを祖とせざることなし。我が[平出]朝、[台頭]孝徳天皇大化二年(646)正月甲子朔、[台頭]詔(みことのり)して曰く、聡敏にして書算に巧みなる者を挙げて、主政主帳となせと。[台頭]文武天皇大寶元年(701)選定する令中に算博士の職あり。而してこの道に精しき者、世世少なからずして、そのもっとも顕(あらわ)れたるは、小槻・三善の二氏なり。中古、政(まつりごと)荒れ、令廃し、戦国搶攘(そうじょう=搶は「つく」、攘は「はらう、ぬすむ」)の日、迨(およ)ぶ。九章の学、地に墜ち、また世教に関(かか)わりあるを知る者なし。士、軍務に労(つと)め、民、流離に苦しみ、除法を煩わしきとして、用いず、ただ乗法の用、これ、正慶算と曰(い)う。数学の厄、ここに極まる。[平出]慶元(=慶長・元和)の際、出羽守毛利重能、始めて帰除の法二巻をあらわして、弟子に教ゆ。その術、開平方に及ばず。しかれども、後世、数学家の津梁(しんりょう=渡し場と橋。橋渡し)となす。まさにこの時、四海昇平、文芸に遊ぶものは少なからざるべし。吉田光由、塵劫記をあらわし、大いに世におこなわる。しかれどもまた、開平・開立・方程・盈の数法に過ぎず。最後に澤口一之という者あり、元の朱世傑の算学啓蒙を獲(え)て、始めて天元術を発揮し、古今算法をあらわす。保井春海、郭守敬の授時暦によりて、推歩の法を研究し、新たに[平出]貞享暦を修む。また我が[平出]関夫子、卓然、傑出の才を以って、百家の秘書を渉猟し、その機軸を発明し、遂に大いに前代を超越す。ここにおいて、数学の道、また世に明らかとなる。弟子となり、その門に遊ぶ者、多しといえども、その壼[17]奥(こんおう=奥義)を窮めることあたわず。而して荒木氏の伝、ひとり、その宗を得て、これをその門人松永良弼に伝え、良弼これを山路主住に伝え、主住これを安嶋直圓に伝え、直圓これを我が[平出]日下先生に伝う。余、幼くして先生の門に受業し、朝夕、ここに従事し、切磋琢磨、微(もし)発明するところありとせば、[平出]文政庚辰(3年(1820))の春、遂に固陋(ころう=見識がせまくかたくな)を辞さず、新たに心得するところの術、一則(いっそく=ひとつの法則)を書し、これを[平出]武の一宮(=武蔵の国の一の宮)の霊祠に掲げ、以って神明の寵を祈る。[平出]先生曰く、孺子(じゅし=幼子。相手を見下げていう言葉)、教えるべきなり。時に、余、未だ弱冠(=二十歳)せず、固辞す。壬午(文政五年(1822))正月、遂に、帳中の秘訣および新炙(しんしゃ、しんせき)するところの弟子を以って、ことごとく我(われ)に附属せしめるなり。弟子、あるいは我を難(かたん=難詰)ずる者あり。世の神祠(しんし)に掲げるところの算題、いまだ、多くは、これに精しくして彼(かれ)に粗、の譏(そし)りを免るることあたわず。いま掲げるところの一則は、また説、有らんや。(私は)曰く、これあり。大いに凡人のなすところにして、ただ一隅に挙げるのみ。いまだ三隅をもって反(おしはか)ることあたわざるなり[18]。わがなすところは、すなわち、しからざれば、一隅より千万隅にいたる。通ぜざることあることなし。その術、まずすべからく理の如何(いかん)を認得して後、算を立て、傍書、以って開差を求め、差中またおのずから差あり、差差あい遂にまた理を以ってこれを綴(つづ)り、余、これを名づけて、豁理(かつり)の術となす。果たして(=もし)よくこの理に通暁せば、すなわち、天度の差、推歩の密ありと謂(い)うといえども、心思を費やさずして、識(し)り得べきなり。べつに著すところの方円一致に詳(つまびら)かにす。こいねがわくば、もって大方(おおかた)の謗議(ぼうぎ=誹謗中傷)を免るべきことを。頃日(ちかごろ、このごろ)弟子、また吾および弟子のかつて神祠仏寺に掲げるところの算題若干則を輯(あつ)め、もって小冊子となす。これを名づけて古今算鑑という。家塾の蔵、もって生徒に裨益(ひえき=寄与)するところありとなす。弟子、その謄録(とうろく=複写)の労を憚(はばか)り、これを梨棗(りそう=ナシやナツメの版木)に刻み、もって世に公(おおやけ)にせんことを請(こ)う。余、いわく、不可なりと。数学の道、高なり、大なり、精なり、微なり。古来、[平出]聖賢の相承(そうしょう=順次つづく)する天下を経緯するの法、すでに経に伝に詳(つまびら)かなり。あに、浅々(せんせん=すこしずつ)の小術、跂及(ききゅう=せつに待ち望む。跂は、つまだてる)すべきところなりや。もしそれ関氏、宗統の伝、あるいは世教にかかわるものならば、すなわち可なり、と。余たるや、不敏、いまだ犬馬の労を天下にいたすことあたわず。而して、虚名をもって我を累(わずら)わすことを欲さんや。弟子、彊(し=強)いて、やむにしからず(=やむをえずおこなった)。数学の廃れ興り、絶え継ぐの功に然(しかり)せば、すなわちいまだ必ずしも小補なしとせず。よりて、これを授く。
天保壬辰(三年(1832))の春正月、内田恭思敬氏、東曈[19]軒に書す。

 

◎日下誠跋[20]

【原文】

文藝之道多矣人不能得而盡通也苟能其一則又足以稱一才子矣余門人内田思敬頴悟精敏通暁衆技或於禮樂或於經史議論證據今古廉悍堅確若詩若文體裁出入歐蘇辭藻宏麗又其天文暦術之詳如示諸掌上也初學數於我時年甫十一儕輩中嶄然已見頭角未弱冠窮其隠微莫有所遺矣弟子多慕之余亦喜才子之出門竟以關氏宗統之訣悉附屬之韓子曰弟子不必不如師師不必賢於弟子余於思敬而知之吁有文辭如彼有才藝又如此豈惟一才子而已哉可謂豪傑之士矣若夫古今筭鑑則人之所稱譽余又何言之有
天保壬辰之春
七十歳翁日下誠撰

【訓読】

文芸の道は多し。人、得てことごとく通じることあたわざるなり。いやしくもその一をあたうならば、すなわちまたもって一才子と称するにたる。余が門人、内田思敬は頴悟精敏、衆技に通暁し、あるいは礼楽にあるいは経史に議論して今古(こんこ=古今)を論拠し、廉悍(れんかん=きびきびして強い)堅確、詩のごとき、文のごとき、体裁(ていさい)、欧蘇(おうそ=欧陽修と蘇軾)に出入(しゅつにゅう=ゆきき、往来)し、辞藻宏麗、またその天文暦術の詳しき、これを掌上に示すがごときなり。初めて数を我に学ぶとき、年甫(ねんほ=とし、やっと)十一、儕輩(せいはい=仲間)中、嶄然(さんぜん=ひときわとびぬけているさま)、すでにして頭角を見(あらわ)し、いまだ弱冠にしてその隠微をきわめ、遺(のこ)すところあることなし。弟子の多くはこれを慕(した)い、余もまた才子の門を出(い)づをよろこぶ。ついに関氏(=関孝和)宗統の訣をもって、ことごとくこれに附属しす。韓子[21]曰く、弟子(ていし=でし)は必ずしも師にしかずんばあらず、師は必ずしも弟子より賢(まさ)らず。余、思敬にしてこれを知る。吁(ああ)文辞あり、彼のごとき才芸あり、またかくのごとし。あにただに一才子のみならんや、謂いつべし豪傑の士なり。かの古今算鑑のごときは[22]、すなわち人の称誉するところ、余、また何の言のあらんや。
天保壬辰(三年(1832)の春
七十歳翁日下誠(ならびに)

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[1] 訓点。一二点で返るときのみ熟語を示す縦線(竪点)あり。

[2] 訓点。一部、熟語の左傍線(竪点)を中央線のようにあつかい、音読みを指示している。

[3] 「以為數學之用盖在於此矣」は「おもえらく数学の用なんぞここにあらんや」とも。

[4] 「以為數學之體又在於此矣」は「おもえらく数学の体またここにあらん」とも読める。

[5] 奎運は学問・文芸の発達。

[6] 『孟子』離婁下。

[7] 従五位下の唐名。諸侯の従五位下で無役のもの。

[8] 訓点のみ。

[9] 『周礼』地官。

[10] 治道は天下を治める道。従張は「よりて張る(=それから整った)」の意味と、湯城吉信氏が指摘されている。

[11] 『書経』虞書舜典。「在璿璣玉衡、以齊七政」。

[12] 『書経』の編名に「洪範」がある。夏の禹王のとき、洛水から出た神亀の背にあった文(洛書)がもとになったという。また「九疇」は、殷の箕子が周の武王に答えた天下を治める九つの大法という。

[13] 『春秋左氏伝』襄公三十年。絳縣老人(名は亥)が年齢をたずねられ、「私は正月甲子の朔の生まれで、それから四百四十五回の甲子がめぐり、その最後の甲子の日から二十日たった」と答えた逸話。そのとき、師曠が「七十三歳」と計算し、大史の趙が「名の亥の古字は二首六身になり、それは生まれてから今日までの日数を示す」と述べ、士文伯が「それは二万六千六百六十日になる」と言った。

[14] 『頭書算法闕疑抄』巻四に、「むかし呉の趙達、善(よく)算す。小豆数升を取、是を席(=ムシロ)上に播(ひろげ)て立所(たちどころ)に其数を分つと、韻瑞ト云書ニ有之由」云々。『括要算法』の岡張序を参照せよ。

[15] 『五代史』巻三十。王章は五代の漢、魏州南楽の人。民が重税に苦しんでいるときの逸話。『括要算法』の岡張序にみえる。

[16] 『宋史』巻二十、徽宗(姓名は趙佶)大観三年(1109)に「十一月丁未、詔算学以黄帝為先師、風后等八人配饗、巫咸等七十人従祀」。『算学啓蒙』(和刻本)の土師道雲跋を参照せよ。

[17] 壼(こん)は、壷(つぼ)、壺(つぼ)と別字。

[18] 『論語』述而。「挙一隅、不以三隅反」。

[19] この日偏の曈は、目偏の瞳とは別字。曈々(とうとう)は朝日の輝くさま。

[20] 訓点のみ。一二点で返る熟語の間に縦線(竪点)あり。

[21] 韓愈の師説。「孔子曰三人行則必有我師、是故弟子不必不如師、師不必賢於弟子、聞道有先後、術業有専攻、如是而已」。

[22] 「若夫」と続いていれば、「もしそれ」と読む発語。