◎算学鉤致

 

◎高田芳昌序[1]

【原文】

筭學鉤致序

今之六藝非古之六蓺也禮但玉帛問之以出於天殽於地者則亡羊失儀樂但鐘鼓問之以君臣民事物之和則聵聵然射但發中問之以觀聴之義則不耦御但出超問之以六轡如組之調則背馳書但形似問之以結構間架之法則拒露鋒鋩而唯數藝有其人錫類不匱紹緒釐類闡微鉤玄不啻席豆囷米推歩天之高商確地之廣山而絜木海而測水人壽禹無物不究數者矣嗚呼六藝非六藝也雖然清世毓才寔繁有徒豈唯數藝窮其道耶亦復有稽古者焉此書之成也起吾歎故論逮于茲矣若夫篤厚之志邃賾之術不俟贅言云
文化乙亥秋晩
越中 高田芳昌撰

【訓読】

算学鉤致序

今の六芸は古(いにしえ、むかし)の六芸にあらざる也。礼をただ玉帛(ぎょくはく=玉と絹。進物)としてこれを問い[2]、もって天に出、地に殽(まじ=混)れば則、羊を亡(うしな)い、儀(=礼儀)を失う。楽をただ鐘鼓(しょうこ=鐘と鼓。音楽)としてこれを問い、もって君臣、民事(=人民の生活に関すること)の物の和(わ=なごみ)とせば則、聵聵(かいかい=無知)然たり。射をただ発中(=発射と的中)としてこれを問い、もって観聴(かんちょう=見ると聞く。見物人)の義(=意味。ため)とせば則、不耦(ふぐう=不遇、ふしあわせ)。御をただ出超(=出走)としてこれを問い、もって六轡(りくひ=車を引く四頭の馬につけた六本の手綱)の組の調のごとくせば則、背馳(はいち=ゆきちがいになる)す。書をただ形似(けいじ=かたちが似る)としてこれを問い、もって結構(けっこう=文章のくみたて)間架(かんか=文章のよろしきを得たもの)の法とせば則、鋒鋩(ほうぼう=きっさき。鋒芒は、きっさきから転じて鋭い議論や人の鋭気)を露(あらわ)すことを拒(こばむ、ふせぐ)。而して唯(ただ)数芸にその人錫(じんしゃく。錫人(しゃくじん、せきじん)はすずで造った人形。昔、死者とともに埋葬した)の類(たぐい)あること不匱(ふき=すくなくない)、釐類を紹緒(しょうしょ=継承、ひきつぐ)し、微を闡(あきらか)にし、玄(げん=道の本質)を鉤(さぐ)る。啻(ただ)に席豆(せきとう=むしろのマメ)囷米(きんまい=倉のコメ)[3]のみならず、天の高を推歩し、地の広を商確(しょうかく=はかり定める)し、山では木を絜(はか)り、海では水を測り、人寿(じんじゅ、にんじゅ=人の寿命)禹地[4](うち=中国の国土)究めざるもの無きは数なり。嗚呼(ああ)六芸は六芸にあらず。しかりと雖も、清世(せいせい=太平の世。清時)毓才(いくさい=育才、育材の意か?)、寔(まこと)に繁(しげ)く徒(=生徒?)有り、豈(あに)唯に数芸のみ、その道を窮めんや。また復(ふたたび)稽古(=古の道を考える)する者あり。この書の成るや、吾(わ)が嘆(たん、なげき)を起こす故にここに論逮(ろんたい=論じ及ぶ。逮は及ぶ)す。若夫(もしそれ=語)、篤厚(とくこう=人情にあつく誠意がある)の志、邃賾(すいさく=奥深いところ)の術、贅言(ぜいげん=よぶんな言葉)を俟(ま=待)たず、と云う。
文化乙亥(1815)秋晩(=9月)
越中、高田芳昌撰。

 

◎河合良温序[5]

【原文】

算學鉤致叙

余嘗聞粤人石黒翁邃乎數術者稔矣。邇者所著之筭学鉤致編纂已成矣。観其所自題于篇首。蓋中土筭法之所駕説。洎我
皇朝先輩之論撰群籍雜書。該覧幾盡矣。至若近古来籌筭家。新構奇術妙技問難等。則不特拆其理暁其義間辨其謬妄。裁以自家独得之見。吁翁之於此技。何刳精銶心之至如此也。易以謂鉤深致遠者。於是乎在焉。此編之所由命。孰容喙乎其間焉。余因歎意。凡人之為学經業道術。不待言焉。雖小藝雑技。苟自非能専其心致其志者。安幾其有成焉。輕儇浅学之徒。盍少思諸。今夫数之為道也。大者。明所可以測高之覆推厚之所載。紀五行。齊四時。其次者。可以經論邦國。釐正井疆分貢職調百度。小者。泉穀之多寡也。布帛之長短也。俾其出納分施之際不左圭撮。不失枡忽。莫毫有所疑貳焉。豈纖小也哉。崇尚實学者。安容忽諸。僚友日下氏亦喜九々技。嘗親炙于翁。而升其堂嚼其胾者也。此編之成。請余一言。余也不敏。固於其乗除紐析之方。匪燭其理者。則纚鄙語綴蕪辞。抑玷累知識則有之。安能為翁軽重。而不辞者。而不辞者者。特嘉翁篤学精成之績。兼為輕儇浅学輩。徽見諷志云。
文化甲戌秋九月
加賀河合良温撰并書

【訓読】

算学鉤致叙

余、嘗つて粤人(=越の国の人)石黒翁、数術に邃(おくふ)かきことを聞くもの、稔(つ)めり[6]。邇者(ちかごろ)著すところの算学鉤致、編纂すでになる。その自ら篇首に題するところを観るに、蓋(けだ)し中土(=中国)算法の説を駕する[7]ところ洎[8](およ)び我が皇朝先輩の論撰する群籍雜書まで、該覧、幾(ほとん)ど盡(つく)しぬ。近古来の籌筭家、新に構える奇術妙技問難(もんなん=といただしなじる)等の若(ごと)きに至りては、則、特(ただただ)その理を拆(わ)かち、その義を暁(さと)さんとするのみならず、間(おりおり)その謬妄を辨じ、裁するに自家独得の見をもってす。吁(ああ)翁の此の技におけるや、何んぞ刳精(こせい=精しきをえぐる)銶心(きゅうしん=こころに穴をあける)のかくのごときに至れるや。易に以謂(いえ)る、深きを鉤(さぐ)り遠きに致れる[9]は、ここにおいて在(あ)り。此編の由りて命(なづ)くるところ、孰(いずれ)か喙(くちばし)をその間に容(い)れん。余、因りて歎じて意(おも=思)う。およそ人の学をなするや、經業(=経学の修行)道術(=道術と学術)は言うことを待たず。小藝雑技といえども、苟(いやしく)も、よくその心を専(もっぱら)にし、その志を致しむるものにあらざるよりは、安(いずくんぞ)その成ることあるを幾(ねが)わん。輕儇(けいけん=かるはずみ)浅学の徒、盍(なんぞ)少(すこし)く諸(これ)を思わざる。今、それ数の道たるや大なるは、もって高明(こうめい=たかくあきらか)の覆うところを測り、博厚(はくこう=ひろくあつい)の載せるところを推(お)し[10]、五行(=木火土金水)を紀(しる=記)し、四時(=四季)を齊(とと)なうべし。その次なるは、もって邦國(=国家)を經論し、井疆(せいきょう=村里)を釐正(りせい=治めただす)し、貢職(こうしょく=みつぎもの)を分かち、百度(ひゃくど=あらゆる法律制度)を調すべし。小なるは、泉穀(せんこく=貨幣と穀物)の多寡や、布帛の長短や、その出納分施の際をして圭撮(けいさつ=少量)を差(さ、たがい)せず、枡忽(せんこつ=わずかな量)を失せずして、毫も疑貳(ぎじ=うたがい)するところあること莫(な)から俾(し)む。豈に纖小(せんしょう)ならんや。實学を崇尚(すうしょう=あがめたっとぶ)するもの、安(いずくん)ぞ忽(ゆるがせ)にす容(べ)けん。僚友日下氏、また九々の技を喜(この)み、かつて翁に親炙(しんしゃ、しんせき)して、その堂に升(のぼ)り[11]、その胾(し=肉の切り身)を嚼(あじわ)うものなり。此編の成る、余が一言を請う。余たるや不敏、固(もと)よりその乗除紐拆(ちゅうたく。紐はむすぶ、柝はわける)の方において、その理を燭(て)らすものに匪(あら)ざるときは、則、鄙語を纚(り=つなぐ)し、蕪辞(ぶじ=粗末な言葉)を綴(てつ=つづる)するも、抑(おもう=思)に知識を玷累(てんるい。玷は、けがす、はずかしめる)することは則これあらん。安(いずくん)ぞよく翁の軽重を為(な)さん。而して辞せざるは、特(ただ)に翁が篤学精成の績を嘉(よみ=祝)し、兼ねて輕儇(けいけん=かるはずみ)浅学輩のために徽(よ)く諷志(ふうし。諷は遠まわしにほのめかす)を見(あらわ)す、と云う。
文化甲戌(11年(1814))秋九月
加賀、河合良温、撰、并(なら)びに書。

 

◎石黒信由序[12]

【原文】

算學鉤致序

數之為道也自然而已夫尺表之審璣衡之度寸管之測往復之氣豈私知狡黠之所能與焉乎哉天之所覆地之所載萬物之所不齊不由是則将安得測而知焉耶古者以是備諸六藝之一存九章之法凡根于世教帯于民治者蔑不肆而學者實是邦家日用常行之務不可一日闕者也我
←皇朝上世姑舎之寛文之中關先生諱孝和者天資明敏覃思斯技鑽礪覈究源探奥遂發千載不傳之緒垂統後裔自時厥後筭學日熾籌士算客彬々踵武窮才盡技各表著所見播于四方焉盖昉自元禄壬午至于延享丙寅四十有餘年坊間所行筭書不為少也就中算法樵談集下學算法中學算法竿頭筭法算學便蒙探玄筭法開承筭法闡微筭法諸書毎部設奇題難問以需學者觧析於是乎措其對拆其義之書紛々而出然而其所以戰奇智誇精巧者類不翅猥琑雜碎無益筭学本旨而乖舛錯謬亦多矣近復因彼問題成其觧説亦只管豹一斑弗獲見其全豈足為後進領袖乎吾先師中田先生諱高寛富山藩士舊學江戸山路之徽後筑藤田定資二先生造筭術之精微予辱先師諄誨勵愚多年近者就彼諸書問題注記鄙見且附吾輩嘗所掲于神祠之筭法著為一書全帙三巻名曰筭學鉤致庶幾有裨益幼學雖然斯道廣且大也豈予幺麼之資襪線之才所能得焉而竭哉尚後来博洽君子莫吝補予缺漏則孔幸孰大於此焉
文化十年歳次癸酉中秋日越中州高木村石黒信由藤右衛門序

【訓読】

算學鉤致序

數の道をなすや自然のみ。それ尺表(せきひょう=物差しと測定道具)の審(しん=あきらかにする)、璣衡(きこう=天体を観測する機械)の度(=はかる)、寸管の測、往復(=循環、無窮)の氣は、豈(あに)私知(しち=自分ひとりの狭い知識)狡黠(こうかつ=狡猾)のよく与えるところや。天の覆(おお)うところ、地の載(の)すところ[13]、萬物の齊(ととの)わざるところ、これに由(よ)らざれば則、将(まさ)に安(いずくん)ぞ測り得て、これを知らんとすべし。古者(むかし)これをもって六藝の一に備う。九章の法、存(あ)り、およそ世教に根(ね)ざし、民治に帯(お)びるもの、肆(ほしいまま)にせざるを蔑(さげ)すみて、学者、實にこれ邦家、日用、常行の務にして、一日として闕(か)かすべからざるものなり。我が[台頭]皇朝、上世は姑(しばら)くこれを舎(お=捨)く。寛文(かんぶん=寛文年間)の中、関先生諱(いみな)孝和というひと、天資明敏、この技を覃思(たんし=深く考える)し、鑽礪(さんれい=勤め励む)覈(けんかく=調べ考えて明らかにする)、源を究め、奥を探り、遂に千載不傳の緒(しょ=いとぐち)を発し、後裔(こうえい)に垂統(すいとう=帝王が王業の綱紀を子孫や後世に示し伝える)す。自時(これより)厥(そ)の後、算学、日に熾(さかん)となり、籌士、算客、彬々(ひんひん=盛んであざやか)として、才を窮め、技を尽くすことを踵武(しょうぶ=あとをつぐ。武はあしあと)し、各(おのおの)所見(しょけん=見るところ)を表著し、四方に播(ひるがえ)す。盖し、昉(まさに)元禄壬午(1702)より延享丙寅(1746)に至る四十有餘年、坊間(ぼうかん=世間)行われるところの算書、少なしとなさず。就中(しょうちゅう、なかんづく)、算法樵談集(=算法樵談集九問演段、鎌田俊清)、下學算法(=穂積與信)、中學算法(=青山利永)、竿頭筭法(=中根彦循)、算學便蒙(=中尾齊政)、探玄筭法(=入江脩敬)、開承筭法(=池部清真)、闡微(せんび)筭法(=武田済美)[14]の諸書、毎部、奇題難問を設け、もって学者の解析を需(もと)む。措(おし)むらくは、それ、その義を対拆(たいたく=こたえて分析する)するの書、紛々として出、然(しか)り而して、その奇智を戦(あらそ、たたか)い、精巧を誇る所以(ゆえん)は、類(おおむね)翅(ただ=啻)に猥琑(わいさ=猥雑、煩瑣)雜碎(ざっさい)、算学の本旨に無益のみならず、乖舛(かいせん=離れそむく)錯謬(さくびゅう)また多し。近(ちかごろ)復(また)彼の問題により、その解説をなす。また只管(ひたすら)一斑を豹(ひょう=豹の模様のように、はっきりとあやまちを改め、善にうつる)し、その全(=全部)を獲見(かくけん)弗(せ)ず。豈(あに)後進の領袖となすに足らんや。吾が先師、中田先生、諱(いみな)高寛、富山藩士は、舊(もと、むかし)江戸の山路之徽、後筑(=久留米)の藤田定資、二先生に学び、算術の精微を造る。予、先師の諄誨(じゅんかい=やさしく教える)を辱(はずかし=汚)め、愚(おろか)なるを勵(はげ)むこと多年、近者(ちかごろ)彼の諸書の問題に就(つ)いて、鄙見(ひけん=自分の考え)を注記し、且つ吾が輩(やから)[15]の嘗(かつて)神祠(しんし)に掲げるところの算法を附し、一書として著し、全帙三巻、名づけて曰く筭學鉤致と。庶幾(こいねがわく)ば幼學に裨益(ひえき=寄与)あらんことを。しかりと雖もこの道、廣かつ大。豈(あに)予の幺麼(ようま=幼く小さい)の資(=資質)、襪線(べっせん=自分の才能の乏しいことの謙称。たびの糸は、ほどいても短いことからいう。韤線)の才、よく得るところにして、竭(つく=尽)さんや。尚(なお)後来(こののち)博洽(はくこう=あまねく広い。物事によく通じている。洽博)の君子、予が缺漏(けつろう=遺漏)を補(おぎな)うことを吝(おしむ)[16]こと莫(な)かりせば則、孔(はなはだ)幸いとす。孰(いずれぞ)これに大ならん。
文化十年(1813)歳次癸酉、中秋(=8月)日、越中州高木村、石黒信由藤右衛門、序す。

 

◎大野鼎跋[17]

【原文】

算學鈎致跋

乾開坤闢物生其間生斯有象象斯有滋滋斯有數算之興於上世也亦因其自然之數耳初靡有所用智鑿空焉其術可以該宇宙可以總萬彙鍾律度量由此以成歴與象緯得此以推其關係於世豈云眇淺乎子夏有言雖小道必有可観者焉不其然乎方今北地之精算者必推石黒翁翁嘗師事中田文蔵蚤稱入其室文蔵殉而十餘年服其遺教鑽研弗惜者亦十餘年日就月将殆極所造詣矣所著算學鉤致一書可覩已夫九九於世其關係既如是翁於九九其造詣又如是則吾知斯書必有所裨益而非覆酒甕之物矣昔齊桓之汲汲乎士也乃至設庭燎以待之然於東野鄙人猶有九九不足見之言是其心豈不曰曲蓺小技非君子道也乎嗚呼彼坐皐比秉麈尾語天語性自謂為得鄒魯宗承瀘洛統者豈皆博大通方士也哉往往燕石而冒以玉名經世濟民之謂何然則今之所謂君子者又書九九下矣且楩豫章之在深山也森森蔚蔚于霄漢而直上可以棟明堂可以梁大厦所以貴巨材也如其朽且螙乎 曾不若小木之猶有榱桷用也故道無小大在學而成之庶幾乎有所裨益為不空生天壤間矣則翁其人也翁於文蔵為同州而文蔵與余又同藩以故余之聞文蔵門有翁者久矣今而観斯書益信余聴之不謬於其將梓而問世也為附詹詹末簡云
文化乙亥重陽
粤中大野鼎撰

【訓読】

算學鈎致跋

乾開き、坤闢(ひら)き、物、その間に生ず。生ずればすなわち象あり[18]。象あればすなわち滋(=茂、殖)あり。滋あればすなわち數あり[19]。算の上世に興(おこ)るや、またその自然の数によるのみ。初め、智を用いて空(=空論)を鑿(うが)つところあらず。それ、術、もって宇宙を該(つつむ、ことごとくす)べくんば、もって總萬(そうまん?=あらゆるの意味か?)律度量を彙鍾(いしょう=あつめる)すべし。これによりて、もって歴(=暦)と象緯を成(な)し、これを得て、もって世におけるその関係を推(はか)る。豈(あに)眇淺(びょうせん=小さく浅い)と云わんや。子夏に言あり[20]。小道といえども必ず観るべきものあり。それ然らずや。方今(=当今)北地(=北の地方?)の算に精しき者、必ず石黒翁を推(お=推薦)す。翁、嘗(かつて)中田文蔵に師事し、蚤(はやく)その室に入ることを稱(はか=図)り、文蔵殉じて十餘年、その遺教に服し、鑽研を惜(お)しま弗(ざ)ること、また十餘年、日就月将(=日進月歩)して殆(ほとん)ど造詣するところを極む。著わすところの算學鉤致の一書、覩(み=観)つべし。それ九九の世におけるその関係、既にしてこの翁の九九における如し。その造詣またかくのごとくせば則、吾、この書の必ず裨益するところありて、酒甕を覆うもの(=覆醤(ふくしょう)。反故紙)にあらざるを知る。昔(むかし)齊(=斉の国)桓(=桓公)の士を汲汲とする(=忙しく士を求める)や、すなわち庭燎(ていりょう=かがり火)を設けるに至り、もってこれを待つ。然るに東野の鄙人に猶(なお)九九は見るに足らずの言あるがごとし。これその心は、豈(あに)曲芸、小技は君子の道にあらずといわざるやなり[21]。嗚呼(ああ)彼、皐比(こうひ=将軍や儒者がすわる、虎の皮を敷いた席)に坐(すわ)り、麈尾(しゅび=大鹿の尾の払子(ほっす)。禅僧などが談話のときに持つ)を秉(と=取)り、天を語り、性を語り、自ら鄒魯(すうろ=鄒は孟子の、魯は孔子の出生地。転じて孔子と孟子。また、その教え)の宗を得、瀘洛(ろらく=揚子江に注ぐ瀘水と黄河に注ぐ洛水、または瀘州と洛州)の統を承(う)けると謂(おもい)為(な)す者、豈(あに)皆(みな)博大(はくだい=ひろく大きい)通方(つうほう=道術に通達する)の士なりや。往往(おうおう=ともすれば)燕石(えんせき=燕山から出る玉に似て非なる、価値のない石)にしてもって玉名を冒(おか)す。經世濟民(けいせいさいみん=世を治め、人民の苦しみを救う。政治のこと)の謂(いい)、なんぞ然れば則、今の所謂(いわゆる)君子は、九九を下に書くや。且つ楩(べんなん=くすのき。は楠の本字))豫章(よしょう=くすのき)[22]の深山に在(あ)るや、霄漢(しょうかん=大空)に森森(しんしん=樹木が盛んに茂るさま)蔚蔚(うつうつ=鬱々)として直上(ちょくじょう=まっすぐにのぼる)し、もって明堂(めいどう=天子の大廟)を棟(つらぬ)くべく、もって大厦(たいか=大建築)を梁(わた)すべく、巨材(きょざい=大きな材木、偉大な才能)を貴ぶ所以[23](ゆえん)なり。その朽(く)ち、且つ螙(と、そこなう、むしくい=蠹)すごときは、曾(すなわち)小木の猶(なお)榱桷(すいかく=たるき)の用にあるにしかず。故に道に小大なく、学に在(あ)りてこれを成す。庶幾(こいねがわく)ば裨益(ひえき)するところの空(むな)しからず天壤の間に生じるあるを[24]。則ち翁はその人たるや、翁は文蔵と同州たり。而して文蔵は余と又、同藩。もって故に、余の、文蔵の門に翁あるを聞くこと久し。今にしてこの書を観れば益(ますます)信。余、これを聴き、その将(まさ)に梓(し=印刷)すことを謬(あやま)らずして、世に問うなり。為(た)めに詹詹(せんせん=くどくど言う)末簡(まつかん=文末)に附す、と云う。
文化乙亥(1815)重陽(=9月9日)
粤中(えっちゅう=越中)大野鼎撰。

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[1] 白文。

[2] 『論語』陽貨。「子曰、礼云礼云、玉帛云乎哉、楽云楽云、鐘鼓云乎哉(子いわく、礼と云い礼と云う、玉帛を云わんや、楽と云い楽と云う、鐘鼓を云わんや)」。

[3] 呉の趙達は席豆の計算、唐の曹元理は囷米の計算をよくした。『括要算法』岡張序を参照。

[4] Unicode:57ca」は「地」の古字。

[5] 訓点・句点(圏点)・送り仮名つき。

[6] 稔聞(じんぶん)は「十分に聞きなれている」。

[7] 駕説(がせつ)は「さかんに説きめぐる」。

[8] 「洎(Unicode:6d0e)」は「及」に通じる。

[9] 『易経』繋辞上伝。「探賾索隠、鈎深致遠」。

[10] 『中庸』。「故至誠無息、不息則久、久則徴、徴則悠遠、悠遠則博厚、博厚則高明、博厚所以載物也、高明所以覆物也、悠久所以成物也」。

[11] 升堂は学問の大意に通じること。

[12] 白文。

[13] 『管子』侈靡(しび)。「天之所覆、地之所載、斯民之良(あるいは養)也(天の覆うところ、地の載すところ、これ民のやしないなり)」。『精要算法』の田中貫夫序にみえる。『算法求積通考』の巻頭を参照。

[14] 以上の書は『明治前日本数学史』第三巻509ページを参照。

[15] 『算学鉤致』下巻には石黒信由の門人の問題もあり、「吾輩」は一人称の「わがはい」ではない。

[16] 原文はカタカナの「メ」「ナ」「ム」を上から順に組み合わせた異体字。中根元圭の『異体字弁』に「俗吝(俗字の吝)」と指摘されている。

[17] 白文。

[18] 「生斯有象」の「斯」を「すなわち」と読んだ。「ここに」の意。

[19] 『春秋左氏伝』僖公十五年に「亀、象也。筮、數也。物生而後有象、象而後有滋、滋而後有數」。『漢書』律暦志上に引用がある。

[20] 『論語』子張。「子夏曰、雖小道、必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不爲也」。

[21] 『説苑』尊賢。桓公が庭燎を設けて士をもとめ、応募者がなかったとき、九九の術で応募した東野の人が、「薄能の九九で士の待遇が得られるなら、より高度な術をもつ者は厚遇される、と諸氏は思う」と述べた故事。『神壁算法』の源誠美序にもある。

[22] まとめて「楩豫章、天下の名木」という。

[23] 原文は「己」に通じる「以」の本字。

[24] 庶幾乎有所裨益為不空生天壤間矣」は訓読不詳。