◎量地指南

 

◎穂積英序[1]

【原文】

量地指南序

夫生两儀清濁既分覆者為天偃者爲地其間相去無數大塊也徃古聖人仰俯觀察而垂其象能使天下後世無一物不得其所所以振起其英靈而人本乎天性莫不因其已知之理而益窮之以求至乎其極者也友人納言嶲南勢源昌弘著述三糾以置几上余繙視則輿地規矩術之圖説名曰量地指南能使 國字啓蒙便同志之意至為精密盍請序之雖余未嘗學即凡天下之物而窮其理格其物之階梯而有遐棄焉乎占小譱者率以録名一藝者無不庸况於勞者乎立雪聚螢刮垢磨光惟以此一盤面軸於夷險一平之安是与離婁督縄公輸削墨而不溷者相似也庶幾一善其工用二厚於故舊三欲成人之名之微遂落毫于其端如此
享保壬子冬至後二日
貝南穂積英識

【訓読】

量地指南序

それ両儀(=陰陽)を生じ、清濁すでに分かれ、覆うものは天となし、偃(ふ)せるものは地となし、その間、あい去ること無数の大塊なり。往古の聖人、仰俯(ぎょうふ)観察(かんさつ)してその象を垂れ、よく天下後世をして一物もその所を得ざることなからしむ。その英霊(=すぐれた魂)を振起(しんき)する所以にして、人は天性に本(もとづ)く、そのすでに知るの理に因(よ)りて益(ますます)これを窮めて、もってその極に至ることを求めざるということ莫(な)きものなり。友人納言[2]、南勢(=伊勢の国の南部?)の源昌弘が著述三糾[3]を擕(たずさ)えて、もって几(=机)上に置く。余、繙(ひもと)き視れば則、輿地(よち=地球)規矩術の図説、名(なづけ)て量地指南と曰(い)う。よく[闕字]国字をして蒙を啓き、同志に便ならしめんとするの意、至りて精密となす。盍(なんぞ)請う、これに序せざる。余、いまだ嘗て学ならずと雖も、およそ天下の物に即して、その理を窮め、その物に格(いたる)の階梯(かいてい=ステップ)、しかも遐棄(かき=遠ざけ捨てる)することあらんや。小譱(=善)を占(し)むるものも率(おおむね)もって録さん。一芸に名あるものも、庸(もち=用)いられざるということなし。况(いわ=況)んや労するものにおや。雪[4]に立ち、蛍を聚(あつ)め[5]、垢を刮(けず)り、光を磨(みが)く[6]、惟(ただ)この一盤面をもって坤軸(こんじく=地軸)をして夷險(いけん=土地の平坦と険悪)一平の安に措(お=置)く。これ、離婁(りろう=古代の明目者)が縄を督(ただ)し、公輸(こうゆ=春秋、魯の巧匠)が墨を削り(=墨縄を張り正しく作る)[7]て、溷(みだ=乱)れざるもの与(と)、あい似たることや庶幾(ちか=近)し。一には、その工用(=工匠の仕事)を善(よ)みし、二には、故旧(こきゅう=旧知)に厚(あつく)し、三には、人の名を成んことを欲するの微(=微志)、遂に毫(ゴウ=筆)をその端に落とすこと、かくの如し。
享保壬子(1732)冬至後の二日
貝南[8]、穂積英識(し、しる)す。

 

◎村井昌弘序[9]

【読み下し】

量地指南

序例

一 夫(それ)量地術の由て来る所以は、三代のいにしへ伏羲氏の一畫を画し給ひしより起りしに、後世に至て道衰へ官失し、小學の法頽廃して傳はらず。此術も亦流て戎蠻紅毛(こうもう)の國に入しとかや。然るに紅毛(おらんだ)人、常に商賈を事として萬國を来往し平生(へいぜい)洋中に漂ひ旦夕溟渤に習ふ。茲(こゝ)をもて星学に熟し地理に達す。其術簡にして玄妙をつくし、其法易(ゐ)にして不測(ふしき=ふしぎ)をあらはす。時なるかな今、此術吾[闕字]本邦(ほんほう)に流布する事、尤(もつとも)これを戎蠻鴂舌(けつぜつ=鴃舌(げきぜつ)。もずの鳴き声。やかましくて意味の通じない異民族のことば)の人に傳はれるが、いやしきに似たりといへども、其本源を指(さす)ときは、中華の正法先王の遺術なり。何の忌(いみ)憚(はゞかる)事かこれあらん。世人(よのひと)此理を不辨(わきまへず)、みだりに紅毛(おらんだ)流(りう)の名僻(めいへき)あるをもて、還(かえつ)て其臭(か)を忘る。笑ふに堪(たへ)たり。学者まどふべからず

一 偉(をほひ)なるかな量地術の徳たる事や。不昇(のぼらず)して天の杳(はるか)に高きを測り、不至(いたらず)して地の厚く廣きを察し、不入(いらず)して海の深く遠きを知る。彼(かの)山谷(さんこく)江河(ごうが)原野(げんや)丘陵(きうりやう)城営(じやうえい)宮室(きうしつ)の類、其高深廣遠を量(はか)るがごときにいたつては、恰(あたか)も掌上(しやうしやう=しょうじょう)の物を指(さす)がごとし。或は日月の運行(うんかう)を測(はかり)て暦象を造り、或は滄海に舟舶(しうはく)を汎(うかべ)て萬國を圖(づ)し、或は敵陣の遠近を量りて鳥銃(てつほう)を飛(とば)し、或は彼此(ひし)の高低を知りて水道を墾(ひら)くのたぐひ、皆是此術に不據(よらず)といふ事なし。其務(つとむ)る所のものは至近にしてよく遠きを極め、其守る所のものは至約(しやく)にしてよく愽(ひろき)を盡(つく)す。誠に要法(えうほふ)妙術にあらずや

一 世に量地の術、数多(すた)あるがごとしといへども、大旨(をほむね)教其(をしえ)五種たり。一に云(いはく)、盤鍼(ばんしん)術。二に云、量盤(けんばん)術。三に云、渾發(こんはつ)術。四に云、算勘(さんかん)術。五に云、機轉(きてん)術是なり。尤其教法(けうほふ)尊卑優劣なき事不能(あたはず)。学者選(えらみ)て学ふべし。所謂(いはゆる)盤針術は中華先王の正法にして是が甲(かう=第一番)たり。所謂量盤(けんはん)術渾發(こんはつ)術は紅毛(こうもう)国人(こくじん)の玅法(めうほふ。玅はショウが正しい)にして徑捷(けいしやう)なり。所謂算勘術は数家者流の所遂(なすところ)にして迂遠(うゑん)なり。所謂機轉術は工匠木客(ぼくかく)の所為(するところ)にして是か乙(=第二番)たり。各(おのおの)其底奥(ていをう)にいたりては一致なるがごとしといへども、しばらく其術には其理あり。其法には其事(わざ)あり。学者一術を得たりといふとも其餘(よ)を学ばずむば、頑(かたくな)に此の術を非(ひ)すべからず。是が参攷(さんかう)の為に往々(わうわう)五種の作法を記す。往(ゆい=行)て撿(みる)べし

一 此一編は紅毛(こうもう)傳来の術を初門とし、中華正統の法を蘊奥として選(せん)す。是しかしながら家に蔵(をさむ)るところを旨とし、世に聞けるところを佐(たすけ)とし、彼(かしこ)に索捜(さくさう)して此(こゝ)に訂正し、俚諺(りげん)既に成て量地指南と簽(せん=題)す。前後編五巻或問(わくぶん)二巻たり。前の三巻は量盤(けんばん)術の全体を記し、後の二巻は渾發術盤鍼術[割注:盤針とは世に所謂元器術磁石術といふにひとし當道の極意秘訣是なり]の二法を述ぶ。或問(わくぶん)二巻は其遺漏(ゐろ)を補ひ、且(また)算勘術機轉の雑法を載す。学者此全編を熟讀してのち、量地の法やゝあきらかなるべし

一 をよそ此書を編次する事、大略遠廣高深の諸術、其類に觸て覧(みる)に便(たよ)りす。しかる中にも間(まゝ)また其序次不順なる事あるものは、易(ゐ)術を前にして難術を後にすればなり。あるひはまた、前術に類(るい)するごときの法、ふたゝび後述に出(いだ)す事あるものは、其学習審(つまびらか)ならしめんと欲(ほつ)すればなり。惣じて初学を導くの深切(しんせつ=親切)なるよりして、不慮(ふりよ)に贅言を述ぶる事あり。自然に鑿説(さくせつ)を著すことあり。覧(みる)者これをさとりて、一涯(いちがい)に不佞(ふねい=自己の謙称)が脩短(しゆたん=長いと短い。長所と短所)をのみ罵(のゝし)る事なかれ

一 初学の士此書を学習する事、巻首よりして巻尾にいたるまで、編目(へんもく)に従(したが)ひて逐一に其術を研窮せむと欲する事なかれ。尤(もっとも)得易(えやす)かるべからず。唯書中前後の臈次(らつし=順番の意か?)にかゝはらず、其理の窮めやすきを初とし、其術の會(ゑ)しがたきを後とし、一向(ひたすら)、日(ひゞ)に就(つ)き月(つきつき)に奨(はけ)み、遍(へん)をかさね精(せい)をつくして、漸積(ぜんし)の功を励(はげむ)へし。不然(しかす=しかず)して、たゞちに目次(もくじ)によりて極むと欲(ほつ)せはいたづらに労して功なきものならん

一 近来世上に称する所の編目、つらつら按ずるにいまだ愚が胸臆(けうをく)に不會(ゑせず)。故(かるがゆへ)に今、其固陋(こらう)を忘れて濫(みだり)に是を改正し、新(あらた)に其標目を定む。されども其理其業に至(いたり)ては、世と予(われ)と粗(ほゞ)一致なるがごとし。しからば則(すなはち)古法を蔑(ないかしろ)にして新意を立(たつ)る事、我執(がしう)あるに似たりといへ共、名は実の賓なり。何為(なんすれ)ぞ不當を用ゆべき。猶且(なをかつ)己(をのれ)が不欲(ほつせざる)ところをもて人にをよぼさむは、道に戻(もと)れる事を愧(はぢ)て、今やむ事を不得(えざる)ところなり

一 法術の中に本理にしたがへは、其術還(かへつ)て惑(まど)ひを生じ、略儀によれは、其理郤(かへつ)て速(すみやか)に解するものあり。然(しか)るかごときの術は、其本理を措(おい)て、其畧義を用るところも間(まゝ)多(おほ)し。識者は豫(あらかじ)め本理に據(よ)るへし。初学はまづ其略義にならひ然(しかう)してのち日を追ひ月を渡り、自然(しぜん)に悟りて本理に従がふべし。不然(しからず)して忽(たちまち)に妙所(めうしよ)に臻(いた=至)らむとせば、恐らくは得(う)べからず

一 をよそ量地の器械五術[割注:盤針術量盤術渾発術算勘術機轉術以上をさして五術といふ]各(をのをの)別制ありて、舊品(きうひん)新物(しんぶつ)倶(とも)に其彙(ゐ)類(るい)はなはだ夥(おほ)し。或は流儀と称して異形を用ひ或は工夫と號して私意(しゐ)を加へ、其制作一定(いちじやう)ならず。其品物(ひんぶつ)数十(すじう)をもつて筭(かぞ)ふ。学者悉(ことごと)く是を求めこれを辨(わきまへ)むとせば日もまたたらじ。いたづらに自他の煩(わつらひ)を成(なす)が故に、今其無用の制を省き肝要の器(き)を挙(あげ)て、をのをの其編の初章に図して示す。[割注:五術の器機ことことく一條下に圖するときは混しやすきか故に今其各術の初に圖せり]既に是をもて、其術を勤(つとめ)るときは足りぬべし。強(あなかち)に労して其他(た)を需(もとむ)るに益なし

一 近世紅毛(こうもう)國傳来の量地者(しや)流(りう)、門々(もんもん)秘訣を得たりと称し、家々(かか)妙旨を具(ぐ)せりと号し、或は其技を異(こと)にし、或は其器(うつはもの)を別にして、世を惑(まどは)し人を誣(し=強)ゆ。すべて量地の作法、千差万別(せんしやまんへつ)事業繁多(はんた)なるが如しといへ共、畢竟(ひつきやう)其底蘊にいたりては一理なり。然(しかれ)ども其傳来の是非により、其教諭(きやうゆ)の功否によりて、すこしく迂直(うちよく)緩急(かんきう)の得失なきにしもあらず。よく此書の旨を翫味(くわんみ=がんみ)し、此法の理に通暁せば、大概(たいがい)諸家の奇術妙法と称するもの、其口授を不俟(またず)して、をのづから得(う)べし。彼(かの)諸家の浮説にまどふ事なかれ

一 量地の作法に理と事(わざ)と二様の差別(しやべつ)あり。理は閫内(こんない。閫はしきい)に談じて日(ひゞ)まなび窮むべし。事(わざ)は野外(やぐはい=やがい)に出て時(よりより)にこゝろみ習ふべし。すべて量地の教は、一事(いちじ)一術といへ共、面命(めんみょう=面と向かって教える)口授(くじゆ)にあらざれば會得(ゑとく)しがたき所以は、普(あまね)く世人の識れる所なり。然るに予(よ)今(いま)、淺見薄識を不恥(はぢず)。孤陋(こらう)寡聞(くはふん=かぶん)を不懼(おそれず)。侏離(しゅり=蛮族語(外国語)の意味不明なさま)たる鑿説(さくせつ=うがった説)を筆(ひつ)して幽玄を明(あか)し、依(いき=ぼんやり。依稀)たる疎影(そえい=まばらな影)を挙て微妙(みめう)を解し、もつて其全法を学者の掌握に充(みた)しめむと欲す。おそらくは失考(しつくわう)差謬(しやびやう=誤謬)おほくして、他(ひと)の妨(さまたげ)とならん事を。素(もと)より其悔(くい)なきにしもあらずといへども、諸友の需(もと)むる処しきりにして、再三固辞するに據(よりところ)なく(=よんどころなく)、終(つゐ)に人の為に指頭(しとう)の嘲弄(あざけり)を残すのみ

享保十五年(1730)庚戌、春三月上幹(=上旬)、採筆於東都南芝之神武館(筆を東都(=江戸)南芝(みなみしば)の神武館に採(と)る)、村井大輔昌弘。

 

◎村井昌弘跋[10]

【読み下し】

享保の季年、量地指南前編三巻を選集して、世上に擴(ひろ)む。繼て(ついで、つぎて)後編の述作あらんことを、諸弟子の需(もとめ)止事(とどまること)なく、既に許諾の志ありといへとも、公務餘力なく、心の外に黙止す。其後、不圖(ふと)病痾(びょうあ)に罹(かか)り、苦悩程(ほど)久し。卒(つい)に痼疾となりて薬劑無験、起臥不逐(ふちく=おえず)。因て不得止(やむことをえず)致仕(ちし=仕官を返しいたす)閑居すること、茲に十有餘年たり。成童(せいどう=十五歳以上の少年)の昔より、武学兵術に癖して、主用繁務の中といへとも、此道のみ一日も不棄(すてず)し、其後、病に沈して、講習を廃せんこと、既に右に云へるかことし。況(いわん)や其他の事藝、量地の小技をや。誠に其術、忘れたるに似たり。然るに此頃、奥州乃(の)山岸定則、か閑隠の扉を扣(たたい)て、量地前編の余意(よい=残っている教え)を索(もと)ること頻(ひん、しきり)なり。再三病を以て辞すれとも、不肯(うべなわず)、強(しい)て請ふ不止(やまず)。其深切、他を超へ、其勉強、人に勝れり。其為人(その人となり=その人格)、此道に俊發なること、世に又、類少し。依て不顧前後(前後を顧みず)點首して、直(ただち)に愚息昌言(=村井昌言)に命して、か弱冠(=二十歳)に閲見するところの、彼是(かれこれ)の書、五六部の内、前編に洩たる物を抜粋なさしめて、山岸氏に授て、暫(しばら)く其責(そのせめ)を塞(ふさ)く。元來此書か全くの編述にあらす。諸本の訓詁(くんこ)補て、抜粋なさしむる者なり。然れ共、的當(てきとう=適当)の深理ありて、幸(さいわい)に人に賞せらるともか譽(よ、ほまれ)にあらす(=あらず)。又猥雑の齟齬(そご)ありて終(つい)に世に謗(そし)らるも、か恥辱にもおむわす(=思わず)。覧者(みるもの)それ是をおもえ。
寶暦四(1754)甲戌夏六月、村井蘓道子昌弘書。

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[1] 訓点・竪点・送り仮名つき。「庶幾」にのみ「チカシ」と傍訓。

[2] わが国の納言(なごん)は、大納言・中納言・少納言の総称で、大臣の次官をさす。堯・舜の古代中国では、天子の言を下に伝え、下の言を天子に奏上する官のこと。

[3] 原文は弓の下部にカタカナ「ム」を入れた字。「弱」の片方と同じ。どちらも「糾」に通じる。書物を数える単位。

[4] 原文は雨冠に彗。雪の異体字。

[5] 照雪聚螢は、晋の車胤と孫康が、ほたるや雪の光で読書した故事。立雪程門は、宋の遊酢と楊時が雪中、程頤の門に立って命を待った故事。

[6] 韓愈、進学解。「爬羅剔抉、刮垢磨光」。

[7] 『孟子』離婁。「離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員」。

[8] 二つの印の一方が「貝南」。号であろう。

[9] 序と凡例をかねたもの。漢字かな交じり文。草体。ごく一部に返り点。句読点は右下に小圏(◦)がある。ここでは、原文の旧かなづかいのまま、句読点、返り点を処理している。

[10] 漢字かな交じり文。楷書。句読点は右下に小圏(◦)。