◎新編算学啓蒙注解[1]

 

◎元鎮序[2]

【原文】

筭學啓蒙序

甞觀水一也散則千流萬派木一也散則千條萬枝數一也散則千變萬化老子曰數者一也道之所生生於一數之所成成於九昔者黄帝氏定三數爲十等九章之名立焉周公制禮作爲九數九數之流九章是已夫筭乃六藝之一周之賢能教國子此九數也歴代沿襲設科取士魏唐閒筭學尤專如劉徽之注九章續撰重差淳風之觧十經發明補間博綜精微一時獨歩自時厥後科目既廢筭法罕傳信如是也則計租庸調何術可憑歩數畸殘若爲銷豁米穀正耗何由剖析是猶捨重句而欲測海去寸木而欲量天多見其不知量也燕山松庭朱君篤學九章旁通諸術於寥寥絶響之餘出意編撰筭書三巻分二十門立二百五十九問細草備辭置圖析體訓爲算学啓蒙其於會計租庸田疇經界盈朏隠互正負方程開方之類已足以貫通古今發明後學巻末一門立天元一筭包羅策數靡有孑遺明天地之變通演陰陽之消長能窮未明之明克不觧之觧索數隠微莫過乎是書一出允爲筭法之標準四方之學者歸焉将見抜茅連茄以備
清朝之選云大徳己亥七月既望惟揚學筭趙城元鎭序

【訓読】

算学啓蒙序

嘗(かつ)て水を観るに一(いち)なり。散(さん)ずるときんば[3]則、千流万派。木も一なり。散ずるときんば則、千條万枝。数も一なり。散るときんば則、千変万化。老子の曰く、数は一なり。道の生ずるところは、一に生ず。数の成るところは九に成る。昔者(むかし)黄帝氏、三数を定めて十等となす。九章の名、焉(ここ)に立つ。周公、礼を制して九数を作為す。九数の流、九章これのみ。それ算は六芸(りくげい)の一つにして、周の賢能(けんのう=賢く才能がある者)を賓(ひん=厚遇)[4]し、国子(こくし=貴族の子供)に教ゆ。これ九数なり。歴代、沿[5]襲(えんしゅう=従来のならわしに従う)して科を設け、士を取る。魏唐の間、算学、尤(もっと)も専(もっぱら)にして、劉徽が九章(=九章算術)を注し、重差を続撰し、淳風(=唐の李淳風)が十経(=算経十書)を解し、補間を発明するがごとき、博綜精微、一時に独歩す。自時(しかれより)厥(そ)の後(の)ち、科目、既に廃(すた)れ、算法、罕(まれ=稀)に伝(つたわ)ること信(まこと)にかくのごとし。すなわち租庸調を計(はか)るに何の術をか憑(よ=依)るべき。歩数、畸残(きざん=残り)、若(いか)にして銷豁(しょうかつ=消去)せん。米穀、正耗、何に由(よ)りて剖析(ほうせき=分析)せん。これ猶(なお)、重句を捨てて海を測らんと欲し、寸木を去りて、天を量らんと欲すごとし。多くは其(そ)れ量(はか)ることを知らざること見(あらわ)るなり。燕山松庭朱君(=本書『算学啓蒙』の著者、朱世傑)、篤(あつ)く九章を学びて、旁(かたがた)諸術に通ず。寥寥(りょうりょう)絶響(ぜっきょう=芸術の継承が絶える)の餘(よ=末)において、意を出して、算書三巻を編撰す。二十門を分かち、二百五十九問を立つ。草を細し、辞を備え、図を置き、體(=体。本質)を析(さ)き、訓(くん)じて算学啓蒙となす。其(そ)れ租庸・田疇・経界・盈朏(=盈・隠互・正負・方程・開方を会計するの類においては、すでに以って古今を貫通し足れり。後学を発明するに、巻末の一門は天元の一算を立つ。策数を包羅して孑遺(けつい=わずかな残り)なし。天地の変通を明らかにし、陰陽の消長を演((の)べ、よく未明の明を窮(きわ)め、よく不解の解を尽(ことごと)くす。索数隠微、ここに過ぎたるはなし。是(こ)の書、一(ひとたび)出でて、允(まこと)に算法の標準たり。四方の学者、焉(ここ)に帰(き)す。将(まさ)に茅(ちがや)を抜いて茄(じょ=野菜)を連ねて見るべし[6]。以って[平出]清朝(せいちょう=当代の王朝)の選(=選抜)に備うことを云う。大徳己亥(1299)七月既望(=16日)惟揚(=維揚。揚州)学算、趙城(=隋代に置かれた県の名)、元鎮序す。[7]

 

◎土師道雲跋[8]

【原文】

數於世厥用孔碩仰觀俯察非数不達下巫醫工商以至尺寸斗斛斤秤律呂壹是皆莫不因之而后推焉昔者本朝之隆設科有四紀傳明經明法算道是也三善氏傳之小槻氏任之賀茂保憲光榮咸以其術著又甞宋帝物色振古垂名於青史者六十餘人従祀両廊賜五等爵何其盛哉余所識玄哲者鋭思此藝積有歳月凡算之書莫不索而睹之莫不惟而獲之其河洛推歩之術僉克貫穿一日慨然思世之講之之徒不盡心乎其間出所挟一編庸詒来為無窮之利其志可嘉尚矣傳曰下學而上達数者雖居六藝之末所関係者夥頥於乎欲参庖犠氏易者捨此宜無大者焉他日若有四道之科大観之選則必以此人當其人者乎旹
萬治元年歳名著雍閹茂月旅南呂日得癸未
梅所土師道雲謹書

【訓読】

数の世におけるや、厥(それ)孔碩(こうせき=はなはだ大きいこと)を用(も)ってす。仰観(ぎょうかん)俯察(ふさつ)[9]せば、数にあらずんば、巫医(ふい=巫女と医者)工商より下向(げこう=高所から下に向かう)して、以って尺寸・斗斛・斤秤・律呂に至るまで達せず。壹(いつ)に是、皆、之(これ)に因らざるはなし。而して后(のち)、焉(これ)を推(お)せば、昔者(むかし)、本朝の隆、科を設けること四あり。紀伝・明経・明法・算道、これなり。三善氏これを伝え、小槻氏これを任(たも)ち、賀茂保憲・光榮[10]、咸(みな=皆)その術をもって著(いちじる)し。又、嘗(かつて)宋帝、古(いにしえ)より[11]青史(せいし=歴史。汗青、殺青とも)に垂名(すいめい=名を残す。垂芳、流芳とも)する者、六十余人を物色(ぶっしょく=さがしもとめる)し、両廊(=東西の廊廟)に従祀(じゅうし=主となる者に合わせてまつる)し、五等の爵(=公侯伯子男の爵位)を賜(たま)う[12]。何(なん)ぞ其の盛(さか)んなるや(=なんと盛んなことか)。余が識(し)るところの玄哲[13]という者、この芸を鋭思し、積むこと歳月あり。凡(およ)そ算の書、索(もと)めざることなくして、これを睹(み=見)、惟(おも)わざることなくして、これを獲(え)る。其の河洛(=河図と洛書)推歩(=天文暦学)の術、僉(みな)克(よく)貫穿(かんせん=つらぬき通す。ひろく学問に通じる)す。一日(=ある日)、慨然(=奮然)、これを講ずるの徒の心を尽くさざるを思い、其間(このごろ)挟(おび=持)るところの一編を出(い)だす。庸(なんぞ)来裔[14](らいえい=未来の子孫)に詒(おく)り、無窮の利をなさん。其の志、嘉尚(かしょう=ほめたたえる)すべし。伝えて曰く、下学して上達す[15]、と。数は六芸の末に居すと雖も、関係するところは夥(おびただ)し[16]。庖犠(=伏羲)氏の易に参(あずか=仲間に入る)らんと欲する者は、これを捨(かえりみ)ずして、宜(よろしく)大いなる者ならざるべし。他日(=いつの日か)、若(も)し四道の科(=前出の紀伝・明経・明法・算道)の大観の選[17]あらば、すなわち必ずこの人をもって、當(まさ)に其の人者(じんしゃ=仁者。有徳の士)たるべし。旹(とき)に、
萬治元年(1658)、歳名著雍(ちょよう=戊)閹茂(えんも=戌)、月旅[18]南呂(なんりょ=8月)、日得癸未、
梅所[19]土師(はじ、はせ)道雲謹書。

 

◎星野実宣跋[20]

【原文】

新編筭學啓蒙註解跋

松庭朱世傑所編撰筭學啓蒙三巻昔年師兄久田氏玄哲鋟梓而以流無窮矣夫數者六藝之其一而至者鮮矣古人云數者理之先也誠哉此言也太極下立天元之一而分正負以赤黒筭木二品而同名相乗爲正異名相乗爲負而或同減異加或異減同加相消得而渾然衆理自然備其中矣學者不知之而曰至者否也此書一出而數術明于世矣然讀者間患難通也雖不敏遊此藝有積歳如得至所仍處々作圖加野語註解爲初學助也触類長之可無不至者乎
寛文十二年壬子孟夏日
星野助衛門尉實宣書

【訓読】

新編算学啓蒙註解跋

松庭[21]朱世傑、編撰するところの算学啓蒙三巻、昔年(そのかみ)師兄、久田氏玄哲、梓に鋟(きざ)めて以って無窮に流(おこな)う。それ数は六芸のその一にして、至る者の鮮(すくな)し。古人の云(いわ)く、数は理の先なりと。誠なるかなこの言(こと)。太極の下に天元の一を立て、而して正負を分かつに、赤黒の算木二品を以ってす。而して同名相乗は正となし、異名相乗は負となす[22]。而して或は同減異加し、或は異減同加し[23]、相消(あいけ)し得て、而して渾然たる衆理、自然にその中に備わる。学者、これを知らずして至ると曰(い)う者は、否(いな)なり。この書、一(ひとた)び出(い)でて数術、世に明らかなり。然れども読む者の間(まま)通じ難(がた)きを患(うれ)う。予、不敏(ふびん=不才)といえども、この芸に遊ぶこと積歳あり、至所(ししょ=到達する所)をえるが如し。仍(より)て處々(=ところどころ)に図を作り、野語(やご=田舎の言葉)の注解を加え、初学の助けとなすなり。類(るい=こと)に触れてこれに長ずれば、至らざることなきべきものか。
寛文(かんぶん)十二年(1672)壬子、孟夏(もうか=4月)日
星野助衛門尉實宣、書。

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[1] 京都大学数学教室所蔵本。

[2] この元鎮序は、漢籍の『算学啓蒙』にもともと付いていたもの。和刻本には、訓点・一部竪点・送り仮名がある。

[3] 「ときんば」は仮定をあらわす古訓。ならば、のときは、の意。『塵劫記』玄光序を参照。

[4] 原文は(Unicode:8cd4)

[5] 原文の「氵に公」は「沿」の異体字。

[6] 『易経』泰卦。抜茅(ばつぼう)連茄(れんじょ)は、賢者がその同類を引き進めること。

[7] 京大数学教室所蔵本には、このあとに後筆の割注で「大徳己亥ハ、日城、正安元年ナリ。寛文十二年壬子自(より)、三百七十四年ニ當ル也」とある。

[8] 行書。この土師道雲の跋文は、久田玄哲の『算学啓蒙』の訓点本に寄せたもの。

[9] 『易経』繋辞下伝。『書経』虞書にも同じ表現がある。

[10] 賀茂保憲は十世紀末の陰陽博士、天文博士。賀茂光榮はその子で、暦博士。

[11] 原文の振は自に同じ。「より」と訓読する。

[12] 『宋史』巻二十の徽宗(姓名は趙佶)大観三年(1109)の「十一月丁未、詔算学以黄帝為先師、風后等八人配饗、巫咸等七十人従祀」の記事をさすか。『古今算鑑』内田五観自叙に、「趙宋大観中、選古来善算学者六十六人、而封之公伯子男之四等」とある。

[13] 紀伊の人、久田玄哲。万治元年(1658)に『算学啓蒙』を覆刻した。

[14] 京大数学教室本は、「裔」を「水の下に同」と誤る。小寺裕氏所蔵の『算学啓蒙』で補った。

[15] 『論語』憲問篇。手近なところから学んで奥義に達する、の意。

[16] 原文の頥(頤は俗字)は助辞。『史記』陳渉世家に「夥頤」の文例がある。非常に例外的な助辞。

[17] 大観は、宋の徽宗(姓名は趙佶)の年号。11071110。宋の大観年中に学者を選んで表彰した故事をさす。

[18] この月旅と、つぎの日得の出典不詳。

[19] 紀伊の国をさすか。紀州は梅の産地。

[20] 訓点・竪点・送り仮名・一部に傍訓。この星野実宣の跋文は、本書『新編算学啓蒙注解』のもの。

[21] 松庭は朱世傑の号。

[22] (正の数)×(正の数)=(正の数)、(正の数)×(負の数)=(負の数)のこと。

[23] 正負の符号の同じ2数の引き算が「同減」、符号の異なる2数の引き算が「異加」。正負の符号の同じ2数の足し算が「同加」、符号が異なる2数の足し算が「異減」。