◎小学九数[1]

 

◎沼田敬忠自序[2]

【原文】

題小学九數名義諺解

世之講書者多不知數、故其於小学本註九數之目、皆臆度以説之、故大謬朱註之旨、而甚欺学者之聽矣、其精算術者多不知文字、故亦不能講此書也、是以世知其名義之眞鮮矣、豈可不歎之乎哉、予讀書之暇学數術、故得知其旨焉、遂以國字俚語解釋之、又逐條附其布算之一二以名小学九數名義諺解並附術、惟欲使書生知其名義耳、若其術之精詳、則世有算書之在焉、不復贅於此云。享保五年歳庚子夏六月幾日豫州新谷小吏沼田自題

【訓読】

小学九数名義諺解に題す。

世の書を講ずるもの、多くは数を知らず。ゆえに、それ[3]、小学本註九数の目(もく)[4]において、皆、臆度して、もってこれを説くゆえに、大いに朱註(=朱子の註)の旨(し)を謬(あやま)りて、はなはだ学者の聴(ちょう)をあざむく。それ、算術に精しきものは、多くは文字を知らざるゆえにまたこの書を講ずることあたわざるなり。これをもって世にその名義の真(まこと)を知るもの鮮(すくな)し。豈(あに)これを嘆ぜざるべけんや。予、読書の暇(いとま)、数術を学ぶゆえに、その旨(し=考え)を知ることをえたり。遂に国字・俚語(=庶民の言葉)をもってこれを解釈し、また逐条(=逐一)、その布算の一、二を付け、もって小学九数名義諺解ならびに附術と名づく。ただ、書生をしてその名義を知らしめんと欲するのみ。その術の精詳なるがごときは、すなわち世に算書の在(あ)るあり。またここに贅(ぜい)せず(=余計なことを言わない)、と云う。享保五年(1720)、歳、庚子に次(やど)る、夏六月、幾望(きぼう=ほとんど望、13日または14日)の日、予州(=伊予の国)新谷(にいや=新谷藩一万石。愛媛県大洲市新谷町)小吏、沼田敬忠[5]、みずから題す。

 

◎学生神山跋[6]

【原文】

數者六藝之一而其妙尽乎朱易蔡範之両書焉學者所以不可不学也孟夏余訪浪華於岡田氏主人出此書曰是余之珎書也因余請借以適於茨木使門人吉志部生写之写既成書其後
宝暦十一年辛巳七月十二日
摂津國学生神山識

【訓読】

数は六芸の一にして、その妙は朱易(しゅえき=朱子の簡易さ)蔡[7]範(さいはん=蔡沈の模範)の両書に尽(つく)せり。学者、学ばざるべからざる所以(ゆえん)なり。孟夏(=4月)余、浪華に岡田氏[8]を訪れる。主人、この書を出(いだ)して曰く、「これ、余の珍書なり」と。よりて余、借(しゃく)を請(こ)い、もって適(たまたま)茨木に門人、吉志部[9]生をして、これを写(うつ)さ使(し)む。写(うつ)しすでに成り、その後(しりべ)に書す。
宝暦十一年(1761)辛巳、秋[10]七月十二日、摂津の国、学生、神山[11]、識(しる)す。

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[1] 篠山市立安間家史料館所蔵。大型の写本。「小学九数」は題簽に記された外題。

[2] 訓点・竪点・送り仮名つき。句読点を含む朱引きがあり、批(丶)を現代の「、」のように用い、小圏(◦)は終語の「云」の下にだけある。「小学九数名義諺解」はいわゆる序題。本文の冒頭にある内題は「小学本註九数名義諺解并附術」。

[3] 発語として読んだ。「その小学本註九数の目」と読んでも問題はない

[4] 『小学』は朱子(朱熹)の門人、劉子澄が編纂した六巻の書。「七年(=七歳)男女、席を同じうせず」でよく知られている。朱子がこの『小学』に註をつけたものが『小学本註』。九数の目とは、『小学』内篇・立教の「六芸・礼楽射御書数」の「数」に部分につけた朱子の註(本註)をさす。この朱子の註は、ふるく『九章算術』の劉徽註と同文で、朱子以前の『隋書』律歴志、朱子以後の『算法統宗』にもある(一部は仮借字)。

[5] 「長」は小さく書いてある。通称の長兵衛などの略であろう。渡辺雅道氏は、この沼田敬忠は、正徳三年八月に召出され、享保八年五月に御暇となった、新谷藩の中小姓、沼田民助と推定している。「新谷藩御用万端控」にある由。

[6] 白文。写本の識語。沼田敬忠序とは同筆のようにみえる。この学生神山の識語は、京都大学数学教室所蔵の一本、東北大学図書館所蔵の三本(狩野文庫ほか二本)には見えない。東京大学にも「小学九数」が一本あるようだが、未確認(誰か教えてください!)。

[7] 朱子の弟子の蔡沈(さいしん、さいちん、さいちょう)のこと。『書集伝』を著した。

[8] 当時の大阪随一の本屋、河内屋茂兵衛であろう。

[9] 茨木市に岸部(きしべ)というJRの駅がある。吉志部は不詳。

[10] 原文は(Unicode:79cc)

[11] 神山は不詳(上の吉志部とあわせて、誰か調べてください!)。