◎算法童子問[1]

 

◎村井中漸序[2]

題筭法童子問(=筭法童子問に題す)

向(さき)に彦循(げんじゆん)先生 御伽(をとぎ)草子(ぞうし)[3]を梓行(しかう)して小児の翫具(もてあそび)とせり 一日書肆(しよし)某(なにがし)来りて その續篇(ぞくへん)を請(こふ) 不才廃惰(はいだ=怠惰)年老(=としおい)て多く忘れたる中に聞はつりしそゞろ事をあとさきとなく書つゝりて是を與(あた)ふ 古(いに)しへ子を養(やしな)ふ事六年 数(すう)と方名(はうめい)とを教(おし)ゆ[4]といへり 今この童子と答問して 無益(むやく)より有益に導(みちび)き 浅きより深きに至らしむ 見る人 其(=その)誤(あやま)れるを正(たゝ)し 遂(つゐ)に経濟(けいざい)の一助(じよ)となしなは(=なしなば)亦幸(さいはい)ならずや

安永歳在辛丑(=安永十年(1781)) 平安(=京都)丘壑(=きゅうがく)[5]外臣(がいしん=他国の臣。ここでは京都以外の国の臣下という意味)漸(=村井中漸)撰

 

◎算學淵源

童子問うて曰く、算はいづれの世にか始まれる。またその興廢は如何。答へて曰く、昔、黄帝の時、隷首(れいしゆ)作りはじめたりといふ。しかれども伏羲(ふつぎ)の八卦(くわ)こそその始めといふべし。周公[6]、その大夫商高に、數は何處(いづく)より出づるやと問ふ。商高曰く、數の法は圓法より出づ、圓は方より出づ、方は矩(く)より出で、矩は九々八十一より出づといへり。『周禮(しゆらい)』保氏(ほうし)、王ヲ諌ムルコトヲ掌ル、而シテ國子ヲ養フニ道ヲ以テス、乃(すなは)チ之ニ六(りく)藝ヲ教ユ[7]となり。その中に九數あり。漢の劉徽、九章算術を作る。許商、杜忠、卓茂、劉歆、馬融、鄭玄、何休、張衡、陳熾、王粲のともがら、皆これを善くすとなり。唐宋の間(あひだ)、士を取るに明笇料[8]あり。唐の六典に笇學十經博士弟子五年にして學成るといへり。宋の邵康節、司馬文正、朱文公、蔡西山、精算ならずといふことなし。就中、宋の大觀年中、古來の算學六十六人を封(ほう)じて公、伯、子、男の四等に分かち、公に封ずるもの九人、伯二十八人、子二十人、男九人なり[9]。祖沖之、その選に入りて子封を得たり。此の人、算を論ずる事の精密なる、古今獨歩なり。隋の律歴志に詳(つまびら)かなり。本朝に於ては、[闕字]孝徳帝[10]大化二年正月甲子朔、詔(みことのり)して曰く、聰敏にして書算に巧みなるものを取りて主政、主帳にせよとなり。[闕字]文武帝[11]大寶元年、令を選定せられて、笇博士の職あり。[闕字]清和帝貞観四年四月十五日、勘解由(かげゆノ)次官従五位下兼行(けんぎやう)笇博士家原宿禰氏主(じぬし)を美作権介(みまさかのごんのすけ)に任ずといへり。保元の頃、日向(ノ)守通憲(みちのり)[12]、繼子立(ままこだ)ての笇を傳ふといふ。當道に長ぜる家は小槻(おつき)、三善(みよし)の两氏なりとぞ。中古、戰國に及びて、九章の學、隨つて地に落つ。士は軍務に勞し、民は流離に苦しみて、除算(わりざん)を煩なりとして用ひず、ただ乗算(かけざん)のみを行ふ、これを正慶算[13]といふとなり。今の龜井算の類なり。輓近、慶元の間(=慶長、元和の間)、草昩(=そうばつ)のはじめ、毛利(もり)出羽守重能(しげよし)、『そろばん歸除の法』[14]二冊を著はし、弟子に教ゆ。その術、開平法に及ばず。亦後世算家の津梁なり。此の時、四海昇平を樂しみ、藝に遊ぶ人多し。吉田光由出でて『塵劫記』を作りて、大いに世に行ふ。しかれども其の術、開平、開立、盈朒、方程に過ぐる事なし。次いで澤口一之出でて朱世傑が『算學啓蒙』を得て、天元術を發揮して『古今算法』を著はす。また孝和先生、傑出の才を振るひ、諸約法密術を渉獵し、發明する所、前代に超過して、算學大いに牅(ひら)けたり。實に命世の才といふべし。それより以來(このかた)、その門に出づる徒(ともがら)枚擧すべからず。建部、松永、久留島、中根の諸先生出でて、此の道に從事せり。予が如き、その支流を汲みてわづかに藩籬(=はんり。学問の入り口。かきね)を窺ふ事を得たり。世人、大率(おほむね)算學の本旨を論ぜず、經濟の益あるを置き、わづかにその末駔儈(そくわい=仲買人)、計較(けいかう=はかり比べる)の便(たより)たるを以て、商賈(=しょうこ。商売)、販夫(=商人)の日用となる。故に家々(いへいへ)戸々(こごと)に算盤(そろばん)一面を具さずといふ事なし。かの縉紳(=しんしん=紳士)大夫(たいふ)視て市井(しせい)の俗物とす。宜(むべ)なる哉、その術を見れば皆貨殖の蠶子法にして、また商賈の産業、實に太平の余恩なり。士君子の與(=あず)かるところならんや。大抵(=たいてい。ほとんど)、算の興廢かくのごとし。遠くは史傳に考へ、近くは口碑に求むといへども、猶ほ恐らくは謬妄(あやまり)を免れず。博雅(=博識と雅量)の海涵(=かいかん。心が海のように広く、あやまちを受け入れ許すこと。海容)を庶幾(こひねが)ふのみ。

 

◎平千里跋[15]

中漸(ちうぜん)村井(むらい)先生は夙(つと)に道藝(だうげい)に志(こころざ)し、翰墨(かんぼく)に心を馳(はせ)九章(きうしやう)は其(その)緒餘(しよよ=余力、残り)のみ 人となり沈黙(ちんもく)和遜(くわそん)にして聞達(ぶんたつ)を貪(むさぼ)らず時俗(じぞく)に随(したがつ)て自適(じてき)を楽(たの)しむ 當時(たうじ)平安(へいあん)に名を釣(つり) 利(り)を射(い)る輩(ともがら)に異(こと)なり此冊子(さつし)は唐(たう)の明算(めいさん)料(れう)[16]に倣(なら)ひ 児戯(じげ)に託(たく)して童子(どうじ)を導(みちび)く こひねがはくは九章の學(かく)に進(すゝま)ん事を 因(よつ)て奥旨(をくし)を近喩(きんゆ=卑近なたとえ)に藏(かく)し玄理(げんり)を鄙諺(ひげん=俗語)に薀(つゝ)む すべて玉石(きよくせき)相混(こん)ずるがことし 覧(み)る人 能これを崑岡(こんかう=山の名)に撰(えら)み(=び)なは(=なば)永(なが)く抵鵲村(ていじやくそん)に遊嬉(ゆうき)すべし その末(すへ)度量衡(とりやうかう)に及んでは實(じつ)に國家(こくか)の典律(てんりつ)なり 時制(じせい)の損益(そんゑき)を知(し)らずんばあるべからす 今盡(ことごと)く浩繁(かうはん)を苅(かり) 要領(えうれい)を撮(つま)み 國字(こくじ)を以て暁(さと)し易(やす)からしむ たゞ童子(どうじ)の為(ため)のみならず老成(らうせい)も亦(また)益(ゑき)あり 况(いは)んや儒者(じゆしや)大率(おゝむね)算の縦横(たてよこ)を知(し)らざるをや これ五經(ごきやう)筭(さん)經を作為(さくい)する所以(ゆゑん)なり 曾(かつ)て聞く 向(さき)に物(ぶつ)徂徠(そらい)[17]度量考(とりやうかう)を著(あらは)して世に行(おこな)ふ 諸家競(きそふ)て信従(しんじう)す しかれ共 其説失考(しつかう)多(おゝ)く 唐宋に至ては甚(はなはだ)しと 先生こゝに志(こころざし)ありて尚(なを)度量徴(ちやう)あり 其攷證(かうしやう)する所 尤(もつとも)世に功(かう)なきにしもあらず 此末冊(まつさつ)はその嚆矢(かうし)なりといふ  崎陽 平千里 識
癸卯(=天明三年(1783))之冬

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[1] 小寺裕氏所蔵本。刊記は「天明四甲辰年正月吉祥日 寺町通五條橋詰町西側 平安書林 天王寺屋市郎兵衛寿梓」。 

[2] 草行体の漢字かな交じり文。半分以上の漢字に、振り仮名がある。小寺本の首巻巻頭にある。昭和十九年大紘書院発行の大矢真一訳『算法童子問』では、この序は首巻ではなく巻之一の初めにおかれている。

[3] 中根彦循の『勘者御伽双紙』のこと。

[4] 『礼記』内則。「六年教之数與方名」。方名は四方の名、東西。

[5] 『明治前日本数学史』第三巻140ページに、村井中漸は「痴道人丘壑外史と号す」とある。壑は谷。丘壑の次に「外臣」とあるのも、号のつもりかもしれない。

[6] 「周公」以下は、『周髀算経』巻上にある。

[7] 漢字カタカナ交じり文は、原漢文。

[8] 明笇料」は大矢真一訳本のまま。大矢注は「明算科である。唐代に科挙の制が始つたが、その六科の中に明算科があつた。その用書十二部、中、今十部が存する。所謂算経十種である」。

[9] 『宋史』巻二十、徽宗(姓名は趙佶)大観三年(1109)に「十一月丁未、詔算学以黄帝為先師、風后等八人配饗、巫咸等七十人従祀」。『算学啓蒙』(和刻本)の土師道雲跋および『古今算鑑』内田五観自序を参照せよ。

[10] 大矢注「『日本書紀』巻二十五」。

[11] 大矢注「大宝令である。令義解に詳し」。

[12] 大矢注「即ち信西入道。この説の根拠となるべきものを未だ探し得ず」。

[13] 大矢注「正慶は天正、慶長の意か。(後醍醐天皇の御代に正慶の年号あるも一年のみ)」云々。

[14] 大矢注「本書巻五、第五節の末には『歸除濫觴』と見えている。正しい名前が何であるかは不明。この書物は今日は失われていて見ることができない」。

[15] 草行体の漢字かな交じり文。半分以上の漢字に、振り仮名がある。村井中漸序と同筆。

[16] 唐代の明算科。

[17] 物徂徠は荻生徂徠のこと。