◎算法学海(坂正永)[1]

 

◎山川雄駿序[2]

 

筭法學海序

天之高也星辰之遠也苟求其故千載之日至可坐而致也求其故何也筭也天地剖判而不可無數也嗚呼至哉聖人俯仰觀察其源始此矣至其大彌六合至其細折秋毫數豈可欺乎自君侯将相至衆庶一日不可廢也坂正永者與爲孩抱之友居相鄰及長索居廿有餘歳正永獨嗜筭數無常師終食之間不舎研究錯礱不顧他技遂窮其蘊奥開他人之所未開處復密暦法秘之帳中欲得同志而授之由此觀之猶興之士也其爲人也質朴而愿訥言而敏事是非於己而不敢口之居窮志達不馳嬴利恒惡口實而虚誕怪妄一日攜所著之筭法書來讀之曰吾子勉哉勉哉當時邦畿之間無出子之右者不知其術亦知聰敏斯技也惜乎子與安貧優遊陋巷不如于明君而用於知己人也正永曰是我志願也末如之何海内以數學鳴世者不鮮焉如吾技實獨恥不見陵東之豕故鉗口袖指若幸得崑山片玉之賞則與瓦礫不爲伍寧作玉碎不作瓦全是以徧該覽海内所著之筭書遂一答其問探其術索其理時捧腹間在其中矣何難之有然猶恐來者有不如今之歎勿輕後進術不可測也近歳見來米府所著之拾璣筭法而飜然有出塵之意因觀察思念取一二注解之則有此書中也曰趨舎有時良媒難遇噐大者不可容凡庸薄俗不能知先版刻其書布四方則必同音相響無義而稱之是誣也有善而弗知不明也知而不傳不仁也其言身之文也君子言行不空也雖然卞玉暗投則誰不按劔乎可求其因由盡人謀而俟命其知己千載難得也飲牛掃門望賢君良相求容如此難負子材藏子技長堙滅不可惜乎子遜讓潛心竭精力多年蹞歩致千里登高自卑此書本其卑而成百川學海至海故江海所以能爲百谷王也天下誰人見此書復無可不窮河源乎因題筭法學海請速著此書分布宇内則桃李不言下自成蹊矣雖無老成人猶有典刑書豈爲糟粕乎遺文載道今見子研勢竭力亦躍然所望也因忘孤陋爲辨數言篇端云

天明元年辛丑秋九月望

大坂處士山川雄駿撰(印)(印)

 

【訓読】

算法学海序

天の高き、星辰の遠き、苟(いやしく)もその故(=故実)を求むれば、千載(=千年)の日至(にっし=冬至と夏至。ここではとくに冬至)も座して致(いた=理解)すべきなり[3]。その故を求むは何ぞや。算なり。天地剖判(ほうはん=ものがわかれる、開闢)して数なかるべからず。嗚呼(ああ)至れるかな、聖人、その源を俯仰(ふぎょう=下を見、上を見る)観察するは此(ここ)に始まる。その大は六合(りくごう=東西南北と上下。全世界)に弥(いやま=遍)すに至り、その細は秋毫を折る(=秋毫の微を分析するようにこまかに事理を尽くす)に至る。数は豈(あ)に欺(あざむ)くべけんや。君侯、将相(=将軍と宰相)より衆庶(=庶民、万民)に至るまで一日として廃すべからざるなり。坂正永は余(=私)と孩抱(がいほう=幼い。孩は乳飲み子)の友にして、相隣(そうりん)に居し、長ずるに及んで索居(さくきょ=友人と離れてさびしく居る)すること二十有余歳(=年)、正永、独(ひと)り算数を嗜(たしな)み、常師(じょうし=定まった師)無くとも、終食の間(=一飯の間、しばらく)も研究、錯礱(さくろう=飾る、磨く。錯は金めっき、礱はすり臼)を舎(す=捨)てず、他技(たぎ)を顧みず、遂(つい)にその蘊奥(うんのう)を窮め、他人の未だ開処(かいしょ)せざるところを開く。復(また)密(ひそか)に法秘(ほうひ=法の秘密)の帳中(ちょうちゅう=とばりの中)を暦(れき=歴。めぐる)し、同志を得てこれを授(さず)けんと欲(ほっ)す。これに由(よ)りてこれを観れば(=以上から考えると)、猶(な)おこれを興(おこす=さかんにする)の士なるがごとし。その人となり(=人格)、質朴(しつぼく)にして愿(げん=素直)、訥言(とつげん=訥弁)にして敏(びん=賢い)、事の是非(ぜひ=善し悪し)を己(おのれ)においてして、敢えてこれを口にせず、窮(きゅう=貧窮)に居(きょ)し、志達(したつ=思いの達するところ)は嬴利(えいり=利益)を馳(は)せず、恒(つね)に口実(=口先だけの言葉)にして虚誕(きょたん=いつわり)怪妄(かいぼう=いいかげんなこと)を悪(にく)む。一日(=ある日)著すところの算法書を攜(たずさ=携)え来る。余、これを読みて曰く、「吾子(ごし=二人称の敬称)勉(つとめ)たるかな、勉(つとめ)たるかな。当時(=現在)邦畿(=都に近い土地。畿内)の間、子の右に出るもの無し。余、その術を知らざれども亦(また)、聰敏(そうびん=聡明)のこの技を知るなり。惜しむらくは、子、安貧(あんぴん=貧困に甘んじる)に與(あず)かり、陋巷(ろうこう=ちまた)に優遊(ゆうゆう=ゆったりする)す。明君(=賢明な君)にして知己(ちき=自分の知る)の人に用いらるに如(し)かず」。正永曰く、「是(しか)り、我が志願(=希望)たるや、如之何(いかん)ともすること末(な=無)し[4]。海内(かいだい=国内)に数学を以て世に鳴るもの鮮(すくな)からず。吾が技の如きは、実(まこと)に独(ひと)り陵東の豕(=遼東の豕。遼東では珍しい白豚だが他所では珍しくない。ひとりよがり)を見ざるを恥とする故に鉗口(かんこう=口を閉じる)袖指(=袖手。手を袖に入れ傍観する)す。若(も)し幸いに崑山片玉(こんざんへんぎょく=崑崙山から産する名玉の一つ。人物中の一人)の賞(=誉れ)を得れば、則ち瓦礫(がれき)と爲伍(いご=伍する、仲間となる)せず、寧(むし)ろ玉碎(=功名を立てて死ぬ。瓦全の対)を作(な)し、瓦全(がぜん=いたずらに身をまっとうする)を作(な)さず[5]。是を以て徧(あまね)く海内の、著すところの算書を該覽(がいらん=つぶさにみる)し、遂一(ちくいち)その問いに答え、その術を探り、その理を索(もと)め、時にその中に間在(かんざい)するものに捧腹(ほうふく=大いに笑う。抱腹)す。何ぞ難(なん)のあるや(=どうして難しいのか。簡単である)。然れば猶()お来者(らいしゃ=後進)を恐れること今に如(し)かずの嘆きあるがごとし[6]。軽んずる勿(なか)れ。後進の術、測るべからず。近歳(=近年)来米府(くるめふ=久留米藩)著すところの拾璣算法を見て、飜然(=ひるがえって)出塵(しゅつじん=俗世を離れて悟る)の意(=おもい)あり。観察思念に因(よ)り一、二これを注解することを取れば、則ち此の書中にあるなり[7]」。余、曰く「趨舎(すうしゃ=進退)時(とき)あり(=進むにも退くにも時機がある)、良媒(りょうばい=良い仲人)遇(あ=会)い難(かた)し。器大(=うつわの大きい)なる者は、凡庸(=平凡)薄俗(=軽薄な風俗)の知ること能(あた)わざるを容(いる=収容)るべからず。先(ま)ずその書を版刻し四方に布(し=流布)けば、則ち必ず同音、相(あい)響(ひび)かん。義無くしてこれを称するは、これ誣(ふ=いつわりを言う)なり。善有りて不明を知らざるなり。知りて伝えざるは不仁なり。その言、身(みずか)らの文なり。君子の言行、空ならざるなり。然りと雖も、卞玉(べんぎょく=卞和の見出した玉)暗投(あんとう=暗闇に物を置く)すれば則ち、誰か按劔(あんけん=刀のつかに手をかける。剣をなでる。按剣)せん。その因由(いんゆ=理由、原因)を求むべし。人謀(じんぼう=人智)を尽くして命(=天命)を俟(ま=待)つ。それ己を知るは千載(=千年)に得がたし。飲牛(いんぎゅう=牛に水を飲ませる。飲は、みずかう、と訓む)掃門(そうもん=人に面会を求める。門をはききよめる)、賢君(=明君)良相(=良い宰相)を望み、求容(きゅうよう=用いられることを求める)かくの如く負(お)い難し。子の材(=才)、蔵(かく=匿)れ、子の技(=枝)長ず[8]。堙滅(いんめつ=埋もれ滅すこと)、惜しむべからず。子、遜讓(そんじょう=へりくだる。卑下)潛心(せんしん=心を潜める)、精力を竭(つく=尽)すこと)多年、蹞歩(きほ=半歩)も千里に致(いた=至)り[9]、卑(ひく)きより高きに登る。この書、本(もと)その卑(ひ)にして、百川、海に学び、海に至る[10]と成(な)す。故に江海(こうかい=大河と海)百谷王となす所以(ゆえん)なり[11]。天下の誰人(すいじん、たれ)かこの書を見て、復(また)河源(=黄河の源)を窮め[12]ざるべからざらんや。因りて算法学海と題す。請(こ)う、速(すみや)かにこの書を著し、宇内(=宇宙)に分布せば則ち、桃李、言わざれども、下、自ずから蹊(みち)を成(な)す。老成(=経験)の人、無しと雖も、猶(な)お典刑(てんけい=古いてほん、旧法)の書あり[13]。豈(あに)糟粕(そうはく=酒かす、つまらないもの、取るにたらないもの)となさんや。遺文(いぶん=昔の文章)載道(さいどう=道を載せる)、今、子の研精(=精神を磨く)、竭力(けつりょく=力を尽くす)に見る。余も亦(また)躍然として望むところなり。因りて孤陋(ころう=ひとりよがり)を忘れ、ために数言を篇端に弁(べんず、かんむらん=冠)、云(という、うんぬん、しかいう)。

天明元年(1781)辛丑秋九月望(もち、ぼう=十五日)、

大坂処士(しょし=浪人)山川雄駿、撰(えら)ぶ。

 

◎凡例

凡例

一 近世坊間の新刻、奇術捷法、其の秘を顕し、密を挙げて、愈(いよいよ)蘊奥を尽くす。之を見る者、容易(たやす)く其の起源を探り、術理を解すべきにあらず。況(いわん)や幼学の輩においてや。今、此の書の巻首に天元術の演段維乗の法一條を挙げ、曽(かつ)て達算の人の為(ため)にするに非ず。固(もと)より旧法と雖(いえど)も、唯(ただ)初学の士を導(みちび)かんが為に、之を録する耳(のみ)。

一 第二諸角通術は、其の角中径を求めるの一條、拾璣算法の術を以って、直(すぐ)に(=そのまま)写すに似たりと雖も、逐索の廉率、奇偶変式及び縮級術を先書、略す故に、其の闕(けつ、かける)を補う。

一 第四第五添削は、拾璣算法に曰(い)う綴術、是なり。其の定法に至るは、題に依りて之を設(もう)く故に、其の起術に依らずば、則(すなわち)異題異術なり。之に依り、学者の考勘に備(そな)う。

一 第九第十整数を求めるの法、皆、題に依りて、術、同じからざるものなり。故に之を録す。

一 第十一香の図の変数は、拾璣算法に見えたり。今、此の書に載するところのものは、問辞を異にして、他術を施す。

一 第十五より第十七に至る極数の題は、其の原術に依らずば、則(すなわち)各(おのおの)異題別術なり。之に依りて学徒の考勘に備(そな)う。

一 第十九第二十剰一術は、括要算法に見えたり。然れども、此の書に載せるものは其の術を異にして、歉一(けんいち)剰一(じょういち)の両段数、通術を以って之を録す。

一 第二十一より第二十七に至る招差法は、書毎(ごと)に出(いだ)すと雖も、皆、其の術、迂遠(うえん)なり。故に更に畳約招差の法、之を録す。

一 第二十八方程招差は、其の号、拾璣算法に在(あ)りと雖も、同名異術にして、題術共に等しからず。学者、之を察すべし。第二十九同術は、乃(すなわち)中学算法の問題にして、竿頭算法に之を答えるところなり。其の術中、招差の法を闕(か)く故に之を録す。

一 第三十双釣招差は、乃(すなわち)拾璣算法第五巻招差第十問、是なり。先書に其の演段を略す故に術を施す。第三十一同術は、其の序を以って二次相乗の題を設(もう)く。

一 第三十二垜積術は、書毎(ごと)に出(いず)ると雖も、皆、迂遠にして弊(へい)多し。故に新考捷術を施す。

一 巻中都(すべ)て未だ起源演段を詳(つまびら)かにせざるものは、敢えて秘(ひ)するにあらず。唯、先哲の志を継ぎて、学者をして彼に據(よ)り此を考え切磋を為(な)さしめんと欲す。蓋(けだ)し中古(=昔)専ら増和重乗の題を設く。其の矩合、平易にして算を布(し)くに煩砕(はんさい)のみ。故に先輩、此れ等(ら)の趣意を捨て、術、簡にして理、深遠のものを取る。爾来、書を著すもの毎(ごと)に漸漸(ぜんぜん=次第に)奇巧の題を撰んで以って答を四方に請(こ)うことを要(よう、かなめ)とす。之に由(よ)り後人、益(ますます)奇巧を好み、却って邪問を設けて以って学者を困(こん、こまら)せしむ。或いは己(おの)れ邪術を捨てんと欲し、言を以って内に偽り、外を華(かざ)り、人を惑わす者、寡(すくな)からず。何(なん)ぞ幼学の助け為(た)らんよ。嗟(ああ)過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし。是(こ)の故、予、未だ起源を尽くさざる所以ならんや。

摂江(=摂津の国)坂正永新蔵甫(ほ=男子の美称)識(しる)す。

 

○村井求林跋[14]

 

自幼弱嗜筭數比隣敲坂先生門而屢請業久矣故以漸升堂世上以筭數得聲譽者不可勝數也先生質直而篤此技常與相懽面不敢剽剥他人心思反求諸己先生感篤志頗傳其奥旨辱欲叩其両端而竭亦猶恐有聞而未得行嗟乎先生術如不知江漢之源實當世之人傑也古今答問彌益出奇術鬪其材如循環或榜標神廟梵閣壁上而待其答或更迭發疑難不止或耻技之不逮避之或取臆斷而侮謾之或不耻下問又蹈迹而跂望之獨下問所以精勤而進術也今乃題此書謂也謂先生曰榜標恐經星霜一旦致毀癈不如板彫而傳坊間雖桑楡景薄不朽者文古人藏名山而傳不朽之意也先生曰然汝與書賈相謀速投剞劂氏我有蓄念述作之在可以次出之承意曰有近者悦遠者來而望見先生之高義如示掌則何賜過之

天明元年辛丑秋九月

攝江 村井求林謹譔(印)(印)

 

【訓読】

余(=私)、幼弱(ようじゃく=幼いころ)より算数を嗜(たしな)み、比隣(ひりん=となり近所)、坂先生の門を敲(たた)いて、屢(しばしば)業を請(こ)うこと久し。故に以って漸(ようや)く升堂(しょうどう=学問技芸の大意に通じること)[15]す。世上(=世の中)算数を以って声誉を得る者、勝(あげ)て数(かぞ)うべからず。先生(=坂先生)、質直(しっちょく=地味でまっすぐ、質朴正直)にして、此の技に篤(あつ)く、常に余と面して敢(あえ)て他人の心思(しんし=思い)を剽剥(ひょうはく=非難攻撃)せざるを相懽(そうかん=ともに喜ぶ)し、反(かえ)って諸(これ)を己(おのれ)に求む[16]。先生、余の篤志(とくし=あつい志)に感じ、頗(すこぶる)其の奥旨(=奥義)を伝え、辱(かたじけなくも)其の両端を叩いて竭(つく)さん[17]と欲す。亦(また)猶(な)おおそる、聞きて未だ得行(とくこう=徳をおこなう、得=徳)せざることあるを。嗟乎(ああ)先生の術、江漢(=揚子江と漢水)の源を知らざるがごとく、実に当世の人傑なり。古今、答問(=他人の問いに答えること)弥益(いやまし)に奇術を出し、其の材(=才能)を闘わせ、循環する如く、或(あるい)は神廟、梵閣の壁上に榜標(=標榜、算額を掲げること)して、其の答を待ち、或は更迭(こうてつ=かわるがわる)して疑難(ぎなん=疑い難ずる)を発して止(や)まず、或は技の不逮(ふたい=およばない、ふつつか、逮は及ぶ)を耻(=恥)じてこれを避け、或は臆断(=憶測の断定)を取りてこれを侮謾(ぶまん=人をあなどり、自らおごる、侮慢)し、或は下問(かもん=後輩、目下にものをたずねる)を耻じず、又、蹈迹(とうせき=足跡をたどる)してこれを跂望(きぼう=足をつまだてて遠くをみようとする、待ち焦がれる)す。独(ひと)り精勤(=つとめ励む、細かく心を用いる)を以ってするところを下問して術を進めたるは、今、乃(すなわ)ち此の書を題すの謂(いい)なり。余、謂(おもえら)く、先生の曰く「榜標(=標榜、算額の掲示)恐(おそらく)は星霜(=年月)を経て、一旦(いったん=ひとたび)毀癈(=廃棄)に致(まか)せば、板彫(=出版)して坊間(=民間)に伝えるに如(し)かず」とは、桑楡(そうゆ=くわとにれ、転じて日暮れ、老人)景薄(けいはく=薄暮、桑楡景薄で永年)と雖(いえど)も朽(く)ちざるものは、文古人(=いにしえの文人?)名山に蔵して(=著書の亡失をおそれ石函に入れて名山に隠したことから転じて著作物)不朽に伝えるの意なり。先生曰く、「然(しか)り、汝、書賈(=出版社)と相謀(=相談)し、速(すみやか)に剞劂(きけつ=版木を彫刻する)氏に投ずべし。我に蓄念(=つもった思い)述作の在(=存在)あり、以って次(つい)でこれを出すべし」と。余、承意(=承知)して曰く、「近者(きんしゃ=ちかごろ)遠者(=遠くに住む人)来りて先生の高義(=高い徳行、ご厚情)を望見(=はるかに眺める)し悦ぶ[18]ことあり。掌(たなごころ=手のひら)に示す如くせば、則ち何ぞこれを賜(たま)うに過ぎん」と。

天明元年(1781)辛丑秋九月、

攝江(=摂津の国)村井求林、謹んで譔(えら=撰)ぶ。

 

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[1] 東北大学蔵。内扉には「攝陽坂先生著、算法學海、書林千鍾房・水玉堂、梓行」とあるが、巻末の刊記は「天明二年(1782)壬寅十一月穀旦(=吉日)、書林、江都日本橋通一町目・須原屋茂兵衞、京都京極通五條上ル町・天王寺屋市郎兵衞、仝刻」。

[2] 白文。

[3] 『孟子』離婁下、「天之高也星辰之遠也苟求其故千載之日至可坐而致也」。天体運行の過去のデータと原理を知れば、千年先の冬至でも座ったまま推定できる。

[4] 『論語』衛霊公、「不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣(いかん、いかんと曰わざる者は、吾、いかんともすること末(な)きのみ)」。

[5] 『北斎書』元景安傳、「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」。

[6] 『論語』子罕、「焉知来者之不如今也(いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや)」。どうして未来の人間が現在の人間より劣るとわかるのか。後生畏るべし。

[7] あとから出版された『拾璣算法』のほうが優れている、と言いたいのであろう。この部分、意味不詳。

[8] 材技(さいぎ)は、才能と技芸。

[9] 蹞歩休まざれば跛鼈(はべつ)も千里す。休まず少しずつでも歩めば、遂に大をなす。

[10] 百川、海に学びて海に至る。たえず努力すれば大業もなしとげられる。『法言』学行。

[11] 『老子』六十六、「江海所以能為百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王」。

[12]  河源を窮むは、黄河の水源を探求する。『史記』大宛伝。玉を産する崑崙山は河源。

[13] 詩経』大雅、「雖無老成人、尚有典刑」。

[14] 白文。

[15] 『論語』先進、「由也升堂矣、未入於室也」。升は昇に同じ。

[16] 『論語』衛霊公、「君子求諸己、小人求諸人(君子はこれを己れに求め、小人はこれを人に求む)」。

[17] 『論語』子罕、「我叩其両端、而竭焉」。自分が理解していることのすべてを答える。

[18] 悦遠(えつえん)は、遠方の人を悦ばせること。