◎点竄指南録(坂部廣胖)

 

◎吉田秀賢序[1]

 

【原文】

點竄指南録序

夫理與數合符而不離得其數則理不外焉蓋天地之大也七政之錯行也宿離交食千載之日至坐而可致者數也况人世日用貨賄泉縠之會計而理亦豈外此哉我

邦倡數學者以關孝和爲冠私淑於其道者阪部廣胖天資頴敏執志精鋭夙入其室探其奥秘聲譽大興所著數觧一十五巻名曰點竄指南録囙川越州請序於予予閲之歎曰凡世之所稱讃大抵莫不過其實廣胖子之於数也其實乃過其名宜哉越州師事而又得其道予蒙越州知遇其請不可辞嗚呼算學之範則不假佗求而盡在此書矣其真數一建而物理自可見語云心相不昧豈妄也乎

文化十二年乙亥秋七月

  吉田源秀賢選

 

【訓読】

點竄指南録序

夫(それ)理と数は合符して離れず。その数を得れば則(すなわち)理に外(ほか)ならず。蓋(けだ)し天地の大たるや七政(=日月と五惑星)の錯行(=巡行)たるや、宿離(=宿り止まる)交食、千載の日至(=冬至と夏至)、坐して致(いた)すべき(=座ったままでできる)は、数なり。况(いわん)や人世・日用・貨賄(かわい=宝物。貨は金玉、賄は布帛)・泉縠(=銭穀。貨幣と穀物)の會計にして、理、また豈(あに)これに外(ほか)ならんや。我が[平出]邦(くに)、数学を倡(=唱)えるもの、関孝和をもって冠(かんむり、かしら)とす。その道に私淑(ししゅく=ひそかに学徳を慕い、手本として見習う)する者、阪部廣胖(=坂部広胖)は、天資(天から与えられた資質)頴敏(えいびん)、執志(しっし=志を固く守る)精鋭、その室に夙入(しゅくにゅう=つとに入る、早くから入る)し、その奥秘(おうひ)を探り、聲譽(せいよ=ほまれ)大いに興る。著すところの数解一十五巻、名づけて曰く點竄指南録と。囙(よりて=因)川(せん)越州[2]、序を予(=私)に請う。予、これを閲(けみ)し、歎(たん)じて曰く、「凡(およそ)世の称賛するところは大抵(=大概)その実(=実質)を過ぎざること莫(な)し。広胖子[3]の数におけるやその実のその名を過ぐ。宜(むべなる、よき)かな。」越州(=川井久徳)、(広胖に=)師事して又、その道を得る。予、越州の知遇を蒙(こうむ)り、その請を辞すべからず。嗚呼(ああ)算学の範則(=法則)、佗(た、だ=落ち着くさま)を假(かり=借)ず求めて尽(ことごと)くこの書に在(あ)り。その真数、一(ひとたび)建(おざ=指)して物理、自(おのづか)ら見つべし。語(=ことわざ)に云う、心相(=心の形相)不昧(ふまい=物欲にくらませられない、明らか)なるは、豈(あに)妄(もう、みだり)ならんや。

時に、

文化十二年乙亥(1815)秋七月

 吉田源(みなもとの)秀賢[4]

 

◎日下誠序[5]

 

【原文】

點竄指南序

維嶽鍾神秀爰降我關夫子我 東方之數學以興焉實先哲未發之真理也爾来俊傑接武今也数業可謂集大成矣之同盟之士阪部廣胖號中岳性磊落不羈以脱錐之才拳々孳々苟且傾仆不敢惜斯道之嗜三十有餘年于茲自關夫子五傳而遂入又玄之域其生平所志常在於斯曾不冤[6]聞達於當世有為官禄不折腰之風故有時至無儋石之貯晏如不問家之有亡襟懐洒落不改其樂矣方(後進之領袖我黨之倚頼也一日齎所著點竄指南一十五巻来示曰此業也以須便于初学請敘於其由一閲三歎曰噫是初學之益乎信筭家之典則也吾子發其枕中公之復 國家之鴻寶也雖不敏辱在于道統之裔孤深欣愉斯流之波及于方隅窃惟数理之周備密率如斯盛寰宇之際五大州所未嘗聞也嗚乎後進之士篤信之審辧之随此轍以進必有窺玄門夫有如斯名區有如斯人關夫子之謂歟人能弘道々非弘人廣胖子之謂歟陋識得無僻黨於所好乎庶幾同好士其徴之之於阪部氏也唇歯之友以故述鄙衷弁巻首

維時文化十一歳在甲戌黄鍾今吉之辰

關流宗統五傳日下誠謹撰

 

【訓読】

點竄指南序

維(これ=発語)嶽鍾神秀(がくしょうしんしゅう=神秀は気高く秀でる。山岳の神秀。鍾は集まる)、爰(ここ)に我が関夫子(せきふうし=関孝和のこと)に降(くだ)り、我が[闕字]東方の数学、もって興(おこ)る。実に先哲、未発の真理なり。爾来(じらい=以来)俊傑、接武(せつぶ=武(足跡)を接する)し、今や数業、謂いつべし集大成すと。誠(=日下誠)の同盟の士、阪部廣胖、号、中岳は、性(=性格)磊落(らいらく)不羈(ふき。束縛されない)、脱錐(だっすい)[7]の才をもって拳々(けんけん=努める)孳々(しし、じじ=励む)、苟且(こうしょ=かりそめに)傾仆(けいぼく、けいふ=傾倒)し、敢えてこの道の嗜(たしなみ)を惜しまざること三十有余年、茲(ここ)に関夫子より五伝して遂(つい)に又玄(ゆうげん=奥深いところ)の域に入る。その生平(=平生(へいぜい))志すところ常にここに在(あ)り。曾(かつて、すなわち)当世において聞達(=出世)を冤(うら)まず。官禄(かんろく=官の給料)のために腰を折らざるの風あり。故に有時(ゆうじ=時には)儋石(たんせき=わずかな量)の貯なきに至れども、晏如(=あんじょ=安らかなさま)として[8]家の有亡(=有無)を問わず、襟懐(きんかい=胸のうち)洒落(しゃらく。さっぱりしている)、その楽しみを改めず。方(まさに)後進の領袖、我が党の倚頼(いらい=頼み)なり。一日(いちじつ=ある日)著すところの點竄指南一十五巻を齎(もたら)し、来示して曰く、「此の業たるや以って須(すべから)く初学の便(たより)とすべし。その由(よし)を敘(=叙)せんことを請う」と。誠、一閲し三歎して曰く、「噫(ああ)是(これ)初学の益か。算家の典則(=典章法則)と信ず。吾子(ごし。ここでは坂部広胖を指す)その枕中(ちんちゅう=秘蔵のもの)を発し、これを公(おおやけ)にす。また[闕字]国家の鴻宝(こうほう=大きな宝)なり」と。誠、不敏(ふびん=賢くない)辱在(じょくざい=汚れた所に居る)と雖も、道統の裔に在(あ)り、孤(ひとり)深くこの流の方隅(=四方の隅)に波及することを欣愉(きんゆ=よろこぶ)す。窃(ひそかに)惟(おもんみる)に数理の密率を周備(しゅうび=あまねく備わる)し、かくの如く寰宇(かんう=世界)の際(きわ、はて)、五大州に盛んなること、未だ嘗(かつ)て聞かざるところなり。嗚乎(ああ)後進の士、これを篤信(とくしん=あつく信じる)し、これを審辧(しんべん=明らかに知りわける)し、この轍(てつ、わだち)に随(したがう)て以て進めば、必ず有玄門(げんもん=深遠な道)を窺(うかが)うことあらん。夫(それ)斯(か)くの如く名區(めいく=すぐれた土地)あれば、斯(か)くの如く人あるとは、関夫子の謂(いい)か。人、能(よ)く道を弘む、道の人を弘むにあらず[9]とは、広胖子の謂(いい)か。誠、陋識(ろうしき=いやしい見識)、得(ことさら)に好むところに僻党(へきとう=かたより)なし。庶幾(こいねがわくば)同好の士、其(それ)これを徴(ちょう、しるす)せよ。誠の阪部氏におけるや唇歯の友(=ごく近い友人)たり。もって故に鄙衷(ひちゅう=自分の思いを謙遜した語。衷はまごころ)を述べ、巻首に弁(かんむらん、べんず)と云う。

維時(いじ、これとき)文化十一(1814)、歳(さい)甲戌に在る、黄鍾(こうしょう=11月)今吉之辰[10]

関流宗統五傳日下誠謹撰(きんせん、つつしんでえらぶ)。

 

◎馬場正督序[11]

 

【原文】

算法點竄指南録序

貢湖氏曰、我數學之始祖關自由亭先生、四傳而以至本多北夷齊先生、及安嶋南山先生、粤阪部中嶽氏者、従北南二先生、遂受其傳統、蓋我

本邦數学、至于精密者、自關先生一源妙術之杼柚始矣、今諸家學者各效之、改名換趣、雖競巧於四方、此皆改頭換面之法、未能得其微旨、故有志于數學者、不計盡秒忽亦不少矣、於是中嶽氏點竄彼紕謬、凡自農民貢税商賈賣買貸借之類、以至於諸約翦管及方圓孤背等、盡設諸筭題、著其法術之起源、名曰算法點竄指南録、其書之導人也、猶幅路之有指南車、而不迷、然北轅適越、則不啻失帰路其害及夫軀、算法亦複然矣、妄従法術則不能無千里之差、學者豈所不審乎、夫數者雖有六藝之末、上自

官府下及閭巷、不可以一日廃者也、實海内日用之有功、亦豈不偉哉、此書既成也、我以同門之好、俾之校訂、顧智者千慮有一失愚者千慮有一得、故予亦少加意論已定、遂鋟諸梨棗、悉皆含關先生之源意、奇法玅術、無出其右者也、冀覧者尹意、而熟讀学焉、則自卑至高之妙、棄此書其何以哉。曲綴贅言弁斯編、

文化十一年甲戌十月上澣

貢湖 馬場正督薫郷撰

 

【訓読】

算法點竄指南録序

貢湖氏曰く[12]、我が数学の始祖は関自由亭(=関孝和。自由亭は関の号)先生、四伝して以て本多北夷齊(=本多利明)先生及び安嶋南山(=安島直円)先生に至る。粤(ここ)に阪部中嶽(=坂部広胖。中嶽(岳)は号)氏という者、北南二先生に従い、遂にその伝統を受く。蓋し、我が〔平出〕本邦の數学、精密に至るは、関先生の一源(=ひとつの源)妙術の杼柚(ちょじく=文章を組み立てること)より始まる。今、諸家学者、各(おのおの)これに效(なら)い、改名換趣(名を改め、趣(おもむき)を換え)、巧を四方に競うと雖も、これ皆、改頭換面(=表面だけを改めて実の変わらない)の法、未だ能(よ)くその微旨(びし=微妙な意味)を得ず。故に数学に志あるもの、不計(はからずも)秒忽(=極めて微小)を尽くすこと少なからず。ここに於いて中嶽(=坂部広胖)氏、彼(か)の紕謬(ひびゅう=あやまり、錯誤)を點竄[13](てんざん=文章を改め変える)し、凡(およ)そ農民・貢税・商賈(しょうこ=商人)・賣買・貸借の類より、以て諸約・翦管及び方圓・孤背等に至るまで、盡(ことごと)く諸算題を設け、その法術の起源を著し、名づけて曰く、算法點竄指南録と。その書の人を導くや、猶(なお)幅路(=幅広い道)の指南車ありて迷わざるがごとし。然(しかれ)ども北轅(ほくえん=轅(くるまのながえ)を北に向ける。北行)適越(てきえつ=南の越に向かう。適は行)すれば則(すなわち)啻(ただ)に帰路を失うのみならず、その害は夫(か)の軀(からだ)に及ぶ。算法また複(かさねて)然(しか)り。妄(みだり)に法術に従えば則(すなわち)千里の差なきこと能(あた)わず。学者、豈(あに)審(つまびらか)にせざるところか。夫(それ)数は六芸(りくげい=礼楽射御書数)の末にありと雖も、上(かみ)[平出]官府より下(しも)閭巷(りょこう=村里、民間)に及ぶまで、一日として廃すべからざるものなり。実に海内(かいだい=世界)日用の有功(=有効)、亦(また)豈(あに)偉(い)とせずや。此の書、既(すで)に成り、我れ同門の好(よしみ)を以て、之(これ)を校訂せ俾(し)む。顧(おも)うに智者の千慮に一失あり、愚者の千慮に一得あり。故に予、また少(すこ)しく加意(かい=注意する)、論(ろん)已定(いてい=すでにさだまる)し、遂に諸梨棗(=梨やなつめ等の版木)に鋟(きざ)む。悉皆(しっかい、ことごとくみな)関先生の源意を含み、奇法玅(しょう=妙)術、その右に出るものなし。冀(こいねがわくば)覧(みる)者、意を尹(ただ)して熟読、焉(これ)を学べば則、卑より高の妙に至るまで、此の書を棄(す)てて其(それ)何を以ってせん[14]。曲(まげ)て贅言(ぜいげん=無駄な言葉)を綴り、この編に弁(べんず、かんむらん)。

文化十一年(1814)甲戌十月上澣(じょうかん=上旬)

貢湖 馬場正督薫郷撰

 


 

◎坂部廣胖自序[15]

 

點竄指南録自序

算乃(すなわち)人之根本 知書不知算法如臨暗室爲之(=書を知り算法を知らざるは暗室に臨んでこれをなすが如し)との先賢の格言 人として誰か是を學すして可ならんや  予(よ=自己の謙称)此学に志す事 今に三十年 其(その)初(はじめ)筭學智恵の海と云(いう)小冊を市に得て是を翫(もてあそ)ひてより以来 和漢算法・古今算法・天元録等の書を熟読して粗(ほぼ)天元の大意を得るといへとも 未(いまだ)心に快(こころよ)からす 別に一理貫通の法あらんと常に是を思ふ事 年あり ある時關夫子(=関孝和)の門流北夷先生(=本多利明)に遇ふて是を尋るに點竄法なるもの克(よく)其理を明(あきらか)にすと聞て 手(た)のむ足の踏(ふむ)事をしらす[16] 直(すぐ、ただち)に従侍してこれを學ふ 先生の弟子を教る濶達(かったつ)大量にして 束脩以上[17]あへて拒(こば)ます 秘術奥旨といへとも隠す事なく其両端を叩て[18]つくす 故に期ならすして其壷奥(こおう=奥深いところ)を得るに似たり(=得ることができたようだ) 亦(また)其道統南山(=安島直円)先生篤実の君子にして能(よく)関夫子の道を守り其術精密詳審 最(もっとも)古今未發の妙術を得る事多し 予是に従遊して其足らさるを補ふ 苟(いやしく)も此両先生に遇ふもあらすんは(あらずんば)いつくんそ(いずくんぞ)此道を得る事あらんや 夫(それ)近世算法の書 日月に競出 奇題妙術挙(あげ、こぞり)て筭(かぞ)ふへからす 各(おのおの)其奇巧を尽す 然りといへとも 皆其術の渕原(=淵源)を秘してあらはさす 其師を求て學ぶにあらされは容易に術原を極る事あたわす 都會の人は師を求るに易しといへとも 邉鄙(=辺境、田舎)の徒 或(あるいは)公務定省(ていせい=朝夕、親に孝養をつくすこと)暇日なく なを求て面(ま)のあたり其傳を受る事 能(あた)はさる者あらん 予(よ)爰(ここ)に於て關夫子の遺訓にもとつひて其題を得てこまかく術をほとこし 術原を求るの法を詳(つまびら)かにす 所謂(いわゆる)點竄是なり 帰除・開方の浅技より天元・演段・諸約・翦管・招差・角術・圓理等の深術にいたるまて此點竄に因(よら)さる事なし 実に関夫子[平出]吾朝開闢の妙技 算家の良法なり 此に於て貿買・貰貸・耕歛[19]の類より超(こえ)て方圓・無極の題に至るまて南北両先生新考の妙旨且(かつ)予か憶見發明の新法を加へ集て十五巻とす 號して點竄指南録といふ 初學の士 此書に因て道に至るの一助とならん事をこひねかふ而己(のみ)

文化七年(1810)庚午冬 関流五傳算學 坂部廣胖自序

中嶽 俗称 坂部勇左衛門

 

 

凡例[20]

 

一點竄の法は元祖関先生發明する所にして初め皈源(きげん)整法といふ 後松永良弼に至り其主君岩城侯の命を受て名を點竄と改む 但(ただし)傍書の筆算を用ひ乗除加減は勿論都(すべ)て矩合(くごう)的當(てきとう)の觧義を明かにする良法にして実に数学の要用なり

一此書初編には問題を設け 其答数及び本術を記し 二編に至ては初に點竄の定則を載(のせ)夫(それ)より以下并(ならび)に三編四編ともに都(すべ)て初編に著す 算題の答術を點竄法の傍書筆算を以(もつて)ことごとく起原を述(のぶ)る 但(ただし)本題と起原と打混じては事(こと)繁(しげ)く 且(かつ)丁数多くして 却(かへつ)て見るもの煩しきゆへ題術と起原とは別巻にしるす

一徃々(おうおう)算書印行ありて世に流布するといへども術の起原をしるさず たまたま是をしるすものは己(おのれ)が奇巧を人にしらさん事を先(さき)とするゆへ実に初学の人ちからを尽して見るといへども一を聞(きき)て一を知るにたらざる事多し 故に今著(あらわす)所は觧義をなすに迂遠をいとはず 本術も算當(あた)りの仕安(しやすき)を要(よう)とし 文(ぶん)のいやしきを顧(かへりみ)ず しるすに國字を用ひ 又草書の傍に平仮名あるひは片仮名を交へしるす 犬を擲(たた)く童(わらべ) 簀(あじろ=網代簀(あじろす))を荷(にな)ふ男(おのこ)といふとも数学に志ある者 讀易く一を聞(きき)て十百にも通ぜん事を思ふ故なり 迂遠(うゑん)と捷径(せうけい)とのごときは 點竄を會得して後 其人の器量にしたがつて是を撰(ゑら)み用ゆべし

一此書前にいふ如く本術の觧義を教導せん事を主とす 故に古書に出(いづ)る所の題術を其侭(そのまま)本題にもちゆるあり 見る人あやしむ事なかれ

一題を設る事二百に足らず 是を以(もつて)題の品数(ひんすう)術の変化(へんくわ)尽(つく)る事あらんや 故に觧義にいたつて其題のみにて會得(えとく)しがたきは 或は別数をもふけて変化をしるし 或は類を以 別に問を設け 委細(右:いさい、左:くわしく)にこれをしるす 見る人よくよく味(あちは)ふべし

 

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[1] 白文。

[2] 川井久徳(ひさよし)。幕臣。越前守従五位下。川は川井の略。

[3] 子は尊称。

[4] 吉田秀賢は、篠原善富の『御製暦象考成上編国字解』を校訂している。

[5] 白文。日下誠の名は、山田治助、大原利明の『算法点竄指南』の北山老人序にも登場する。

[6] 明治前W391頁は「兌(よろこぶ、あつめる)」と読んでおり、校訂もされていない。

[7] 『史記』平原君伝に「錐処嚢中(錐、嚢中におる)」とある。袋の中のきりは必ず先が外に出る、すぐれた人物は必ず才能をあらわすことのたとえ。嚢中の錐。

[8] 『漢書』揚雄伝に「乏無儋石之儲、晏如也」。

[9] 『論語』衛霊公に「人能弘道、非道弘人也」。

[10] 「いま吉(きち)の辰(たつ)」と読むか。吉辰(きっしん)は吉日の意。

[11] 白抜きの批点だけがある白文。

[12] 貢湖は、この序文を書いている馬場正督の号。ここでの「曰」は「ものもうす」と読むのかもしれない。

[13] 點竄の語は、『魏志』武帝紀、『冊府元亀』に見える。文章などの字句を改変すること。

[14] 『論語』為政に「其何以行之哉(それ何をもってこれをやらん)」。

[15] 漢字かなまじり文。

[16] 金品を持参して依頼することをせず、の意か。

[17] 『論語』述而。自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。束脩は入門時に納める金銭。

[18] 『論語』子罕。有鄙夫、問於我、空空如也、我叩其両端而竭焉。物事の両極端をきわめつくし余すところのないこと。「両端を叩く」の用例は、伊藤仁斎の『童子問』、夏目漱石の『吾輩は猫である』に見える。

[19] 歛(カン)は、のぞむ、あたえる、戯れに物を乞う、などの意味。おそらく斂(レン、おさめる、おさまる)の誤用。

[20] 漢字かなまじり文。漢字にはすべてふりがな。ここでは一部をカッコ内に表示した。